◆DQ6If4sUjgの物語



第五話 青年よ、覚悟を決めろ

アモールの町から川沿いに北へ徒歩約五分。
そんな最寄のコンビニくらい行きやすい場所に洞窟はあるらしい。
かなりびくびくしながら歩いたけど、結局一度も魔物は出なかった。
多分ボッツが何やら歩きながら撒いていた水のおかげだろう。
初めて出た町の外は、果てなんか無いんじゃないかと思うくらい地平線が続いていた。
こんな光景、都会っ子な俺には今までとんと縁が無かったわけで。

ハッサンに声をかけられるまで、ぽかんと口を開けたまま、俺は動けずにいた。
視界に広がる完全天然の大地は呼吸を忘れるほど美しかったが、
川は変わらず真っ赤に染まっていた。もう気持ち悪くてしかたがない。
ここが夢の世界ってことは、誰かがこんな夢を見てるってことだ。
下に戻ったら誰がこんな気味悪い夢見てたのか調べあげてやらないとな!

「タイチったら。きっとその人にとってもこれは悪夢のはずよ。
どんな夢を見るのか、私たちに選ぶことはできないのだから」
「いやいやミレーユさん、明晰夢っていうのがあってですね」
「なーに言ってんだお前は」
「いてっ!」
「ははは。多分、夢を見ているのはジーナ婆さんだよ」

ハッサンに小突かれた頭をさすりながらも、俺はボッツの言葉に目を瞬いた。
ジーナ婆さん?どうしてあの人だってわかるんだ?

「みんなを起こす前に町の人たちに聞いてみたんだけどな。
ジーナとイリヤという二人組の盗賊が宝を探しに洞窟に出かけて、昨日から戻ってないらしいんだ」
「ふうん、ジーナとイリヤねえ……ジ、ジーナだって!?」

ハッサンが目を皿のようにして大声を上げた。飛び上がらん勢いだ。俺も驚きを隠せない。
確か昨日の聞き込みでは、ジーナ婆さんは元は宝を求めて町を訪れた二人組の盗賊の片割れだったが、
洞窟から一人で戻ってきてそのまま住み着いたって話だったはず。
途中までボッツが聞いたという話と合致している。偶然にしてはあまりに出来過ぎだ。
あれ、ちょっと待てよ?ってことはつまり、

「俺たち、まさか過去に来たのか?」
「いいえ、ここは夢の世界よ。
ボッツの言う通り、これはジーナさんの夢が元になっているんだわ。覚えてる?ほら―――」


―――わしはここんところイヤな夢ばかり見ててイライラしてるんだよ!


「……あ」
「こりゃあますます行かねえわけにはいかなくなってきたな」
「ああ。…見えてきたぞ」

見ると、確かに山がぽっかりと大きな口を開けて赤い水を垂れ流しにしていた。
これまた気味の悪い光景だ。ぶひひん、とファルシオンが鼻を鳴らした。

あ、ファルシオンっていうのは馬車をひいている馬のことね。
ボッツとハッサンはレイドックって国の兵隊らしく、初仕事としてはずれの森に住み着いていた暴れ馬、
つまりファルシオンを馬車馬にしようと連れてきた……らしい。
その結果、立派すぎる馬車を持て余していたじいさんには感激され、
王様にも褒められてこの馬車を与えられたとか何とか。
よく暴れ馬が大人しく馬車馬なんてやってるもんだが、何でも散々逃げ回っていたくせに
挟み撃ちにして捕まえた時にはボッツにすっかり懐いていたらしい。
……こいつ、ドMなんじゃね?

ボッツは今まで引いていた手綱をそのへんの木に結びはじめた。
どうやら馬車はここに置いていくようだ。馬車も馬もろくに見たことないけど、
確かにこうして見ると装飾とかすごいし、ファルシオンもかなり立派な馬だよなぁ。
荷物だけじゃなく、馬車に何人か乗せても全然平気なんじゃないだろうか。
って、そうじゃないと馬車馬なんて務まらないか。

「これでよし。ファルシオン、ちょっと待っててくれよ」

ボッツが馬車の周りにまたもや謎の水を撒き、優しくファルシオンの首を撫でる。
すると彼(彼女?)は目を輝かせ、任せてくれ、と言わんばかりに一声鳴いた。
町の外にも繋がれていたし、待つのも仕事なんだろう。
スーパーやコンビニの店先に繋がれてる犬みたいだ。……っていうのはこいつに失礼か?

「それじゃ行こう。とりあえず中から魔物の気配はしないけど、一応用心して……、?」

先導して洞窟へ踏み込もうとしたところで、ボッツは足を止めた。
同じく異変に気づいた俺たちも思わず顔を見合わせた。
――――洞窟の奥から、水が流れる音に紛れて啜り泣きが聞こえてくる。
ぞわわわ、と背筋が凍るような感覚が走った。今朝の赤い川騒動とはまた別の種類の戦慄だ。

おいおいおいおい、幽霊とかマジ勘弁なんですけど。
幽霊なんて存在しませんよ……ファンタジーやメルヘンじゃあないんですから。

って、ここファンタジーな世界だったあああああああ!!!助けて花京院んんんん!!

「ねえ、見て!」

ミレーユが囁き声で叫んだ。
見て?何を?何だよ何見つけちゃったわけ?いやだああああ見たくねぇぇえええええ!!
けれど俺は見てしまった。ミレーユの細い指の先、洞窟から流れていく水源。
村では川を赤く染めんばかりだったそれがここでは緩やかな帯となっていた。
曲線を描く帯は流れるごとに薄まり消えるどころか、ますます太くなっているようだった。
色も変わらないとかどんだけ濃いんだよ。っていうか明らかに物理法則無視してるだろこれ!
いやいやだからここはファンタジー世界なんだって、と自分に言い聞かせながら、
俺はおもむろに闇が蠢く洞窟の向こうを見た。啜り泣きは未だ止む気配はない。
……やっぱり幽霊の仕業なんだろうか。まいったな、お経なんて唱えられないぞ俺。

「なるほどな」

ふん、と鼻息荒くハッサンが言った。
腕を組んで仁王立ちするその様は本当に勇ましい。

「ビンゴだぜ。犯人は洞窟の中だ。人間か魔物か知らねえが、とにかくやめさせなきゃな。行こうぜ!」
「ああ」

促されて、じっと赤い帯を見つめていたボッツも立ち上がる。
いつもの人の良さそうな顔は険しくなっていた。

「足下が滑りやすくなってるな。みんな、転ばないよう気をつけて」

松明で足下を照らしながらボッツが言った。
試しに足で地面を軽く擦ってみると、つるつるとした感触が返ってきた。
なるほど、いくら水場だからとはいえ、これは危ない。それにかなり涼しい。
当然のことだが、奥へ進むたび暗闇が濃くなっていき、それによって否応にでも警戒心を高めさせられた。
近づいてきた証拠か、啜り泣きはさっきよりもはっきり聞こえてきている。
……血の臭いも濃い。

また、泣き声に紛れて何か言っているのも聞こえた。
呪詛か何かだろうか。マジ怖ぇ。

ようやく暗闇に目が慣れ始めてきた頃、
俺たちがいるところより先のところ……だいたい100mくらいだろうか。
そこに橙色の光のようなものがぼうと現れた。
すわ人魂かと身構えたが、光に照らされて何かの輪郭が
ぼんやりと浮かび上がっているのがわかって、俺は目を凝らした。あれはまさか、人?

「…ちない……ない……。この……が、いくら…………いよ……」

うわあ、よく聞き取れないけどやっぱり何か言ってる!
三人の後に続いて15mくらいの距離まで近づいてきたけど、正直近寄りたくないというのが本音である。
だってそうだろ?こんな暗い洞窟の中、泣きながら一人でぶつぶつ言ってるんだぜ?
さて、この人はどうやら女性で、橙色の光はこの女性が岩に立てかけていた松明の明かりだったらしい。
その松明が微妙に遠いせいで、女性の姿が中途半端に照らされているのが何とも不気味だ。
ここからでは彼女の髪型がベリーショートということくらいしかわからない。あと金髪だ。

「あの人か……?」

そう呟いて、ボッツはその女性にずかずかと近づいていった。うおおおおおお度胸あるなぁお前!
確かにその人が今回の事件の原因っぽいけども、関わるなやめとけやめとけ!呪われるぞ!
って、あああ!ハッサンとミレーユもボッツに続いちまった!
お前らの辞書に"怖い"とか"躊躇"って文字はないのか!?あ、この世界辞書とかなさそうだもんな……。

「あの、すみません」

ボッツがそっと女性の傍らで片膝をついた。
松明の炎が揺れて、一部しかわからなかった女性の全貌が明らかになる。
整った顔立ち、傷だらけの鎧。そしてゆっくりと上下している左腕。
目についたのだろう、その先に目をやって、彼ははっと口をつぐんだ。

「落ちない……落ちない……」

彼女の右手によって川の中に半分ほど沈められた剣。
それは布で擦られるたびに鮮烈な赤を吐き出し、
ためらうことなく清らかな川を汚し、たゆたっていた。
何度擦ろうとも、どんなに強く擦ろうとも、ならばと優しく擦ろうとも、赤は途絶える気配はない。
ただただ赤と、鉄臭い臭いを吐き出し、辺り構わず汚していくのみ。

「この剣についた血が、いくら洗っても落ちないよ……」

川の水は冷えるだろうに、彼女は凍えるのも構わずに左腕を動かしていた。
その顔は白く、唇も紫色に近づきつつある。
ああ、もう寒さも感じないのかもしれない。
もはや彼女そのものが冷気を発しそうな雰囲気すらあった。

「……何が、あったんです?」

恐る恐るといった風で、ミレーユが女性に尋ねた。
ああ、度胸あるよ本当に。俺なんて震えを抑えるので精一杯なのに。
さすが魔物と戦い慣れてることはある。
ミレーユの声に彼女はようやく剣を擦る手を止め、こちらを振り返った。
頬には涙の跡がいくつも残り、青い瞳からは生気が感じられず、
更に充血して真っ赤になってしまっている。美人が台無しだ。

……なんて言ってる場合じゃない。多分、この人は――――

「すべては終わったのよ……。この先には宝なんかない。あるのは私の愛しい人、イリアの死体だけ……」

ああ、やっぱり。

「そうよ。私が彼を殺したの」

この剣でね、と彼女――――ジーナは川から剣を引き上げ、俺たちに見せつけるようにした。
刀身はまるでペンキの中に突っ込んだかのように、
まるでついさっき誰かを斬ったかのように、鮮やかすぎる赤色に染まっていた。
あれだけ水の中で擦られていたってのに。
だから、とジーナは続け、剣を川の中へと引き戻しまたもや左手を動かし始めた。
その青く赤い目はただ一点のみ、恋人の血で染まった剣のみを見つめている。

「落ちない……落ちない……。この剣についた血が、いくら洗っても落ちないよ……」

ボッツたちがゆっくりとジーナから離れ、俺の方へと戻ってきた。
あ、俺今ものすごい情けない顔してるかも。自分で顔がひきつってるのがわかる。
正直言うと、今朝からグロいこと起きすぎて今にも吐きそうだったりするんだな、これが。
堪えてる俺すごい!褒めて誰か!もう怖すぎて倒れそう!

「あれ、ジーナ婆さん……だよな?」
「多分……。なあ、イリアってジーナ婆さんの相方だったって人だろ?それを、こ、殺したって」
「どうやらこれが悪夢の原因みたいね。ずっと苦しんできたんだわ。お婆さんになっても……」

ミレーユが気の毒そうな表情でジーナを振り返る。
それにつられて、俺も再び彼女に目をやった。
さっきと変わらぬ様子で、涙を流しながら剣を洗い続けている……。
今日何度目かの悪寒が体を走り抜けた。まさに悪夢だ。
けれどあれをやめさせたところで、ジーナ婆さんが悪夢から解放されることはないだろう。
川は元通りになるかもしれないが、ジーナ婆さんがまた悪夢に苛まれれば同じことが繰り返されるだけだ。

「奥へ行ってみよう。もしかしたら、まだイリアさんは生きてるかもしれない」

ボッツの意見に、俺たちは揃って首肯した。
斬った本人が殺したと言ってるんだから生きてるかは怪しいと思うんだが、万が一ということもある。
今頃生死の境をさまよっている可能性もなくはない。
俺たちは泣き続けるジーナの後ろをそっと通り過ぎて、奥にあった地下への階段を下りた。
なんでこんなところに人工的な階段が作られてるのかが不思議でならない。
洞窟の奥にカガミのカギを隠した誰かさんの仕業だろうか?
だったら洞窟に明かりをつけてくれてもよさそうだけどなぁ。変なところで不親切だ。
地下へ下りた途端、俺の体はぶるっと震えた。うー、寒ぃ。
当たり前だけど、やっぱり地下に来ると寒くなるなぁ。地下鉄のホームの寒さを思い出すぜ。

……ん、あれ?

「なんだ?明るいな」

まるで第二の太陽があるよう……とはいかないが、電球が切れかけている電灯くらいには明るい。
松明がないとほとんど何も見えなかった上とは雲泥の差だ。
光が目に刺さるようで、少し痛い。

「ああ、石が光ってるんだな。よくあるタイプの洞窟だ」
「光る?石が!?」

ハッサンの言葉に俺は仰天した。
光を受けて輝くならわかるが、自分で光る石なんて聞いたことがない!
確かに床や壁、そのへんの岩をよくよく見るとほのかな光を放っていた。
なるほど、小さな光でも集まれば大きな光になる的なアレか。
うーん、蛍光塗料でも塗ってあるんだろうか。っていうか上は真っ暗だったじゃないか!
あっちの石は光らないのにこっちの石は光るのか??

「なあに、ちょっと掘れば違う性質の石が出てくるなんてよくあることさ」
「そ、そういうもんか…?」

そういうもんなのかもしれない。
俺も考古学とか鉱石とかそういった物には詳しくないし、
これ以上突っ込まないでおこう、うん。いやでも、何か納得いかないような……。

「タイチ、それよりも」
「んぁ、ああ、うん?」

考え事をしていた時に急に肩を叩かれたもんだから、間抜けな声が出てしまった。
そんな俺とは対照的に、ボッツは厳しい顔つきだ。どんな顔しててもイケメンだなお前。
ハッサンとミレーユがからかってたけど、マジで王子なんじゃねえの?
……って、茶化す雰囲気でもなさそうだ。

「気をつけろ。ここからは魔物が出る」
「え。な、なんでわかるんだ?」
「匂い、殺気……まあ色々ね」

殺気てwww漫画じゃねえんだからwwwww
……そういえば、ここに降りた途端急に寒くなったけど、もしかして……。

「とにかく、魔物が出た時は後ろに下がってて」
「そうだな。戦い方がなんとなくわかったら参加してみてくれ。その時は俺たちが全力でカバーするぜ」
「お、おう!」

勇ましく返事したものの、内心はめちゃくちゃ不安だった。
もし俺が農家の息子で鶏やら豚やらを捌いた経験があったならば、
ここまで不安にならなかったに違いない。
……いや、捌くのとはまた違う。これからしなければならないのは命の奪い合いだ。
ああ、やばいなぁ俺。生きて帰れるかなぁ。

最初のうちは言われた通り、ボッツたちの後ろで戦いを見てた。
魔物は実にバリエーションに富んでたね。
ぷにぷにした大きな生物を乗りこなす甲冑に、
頭から大きな花が咲いている木みたいな肌をしたじいさんに、
紫の毛皮に黄色いトサカというペンギンみたいな奴に……。

え?平気なのかって?
いや〜意外とすんなりと受け入れることができたんだよな。
普段ゲームとかで見慣れてるからかな。これぞゲーム脳。ちょっと違うか?
それより俺が怖いと思ったのは戦いそのものだ。
いつでも本気でかかってくる魔物もだけど、もうみんなやばいの。剣を振るうわ拳を振るうわ鞭を振るうわ。
魔物の攻撃で怪我するけど、そんなのお構いなしに戦うからね。
汗が飛ぶ血が飛ぶ四肢が飛ぶ首が飛ぶ。(あ、後半は魔物のだな)
まあそれもホイミやら薬草やらですぐ治るからかもしれないけど、もうね、生き残るのに必死。
戦いが終わるとあたりはカラフルな体液まみれ。もちろん、ボッツたちもそこかしこに返り血みたいなものを付着させていた。
くせえし不安だったし正直気持ち悪くて吐きそうだったけど、
これも生きるためなんだと自分に言い聞かせて何とか吐き気を押し戻した。

不安定な丸太に乗って向こう岸に渡るというインディージョーンズなみのアクションを何とかこなし、
更に地下に進んで少しした後、そいつらは現れた。
いかにも悪魔って奴らが1、2、3……4匹!
しかも素手ならまだしも、奴らはフォークのような槍を手にしていた。

「タイチ!武器を抜いて!」
「えっ、で、でも」

思わずどもってしまった。情けねえ。

「大丈夫、落ち着いて。私たちの手が空くまでの間、何とか耐えてちょうだい」
「無理に倒そうとするなよ。無茶は禁物だ」

――――というわけで、俺は今魔物と対峙しているわけだ。いや〜長いモノローグだった。
って、そんなのんきなことを考えてる場合じゃないんだけどな。
やばいやばいやばいめっちゃ迫ってきてる迫ってきてる。
うわ!よく見たらあの槍、刃先に返しがついてるじゃねえか!
よ、よし、俺だってボッツたちの戦いを見てたんだ。どうしようもなく震える足を奮い立たせる。
このブロンズナイフで迎え撃、迎え撃って……こうなりゃやけくそじゃあああああ!!

「う、うおおおおおおぉぉぉ!!」

漫画の熱血主人公よろしく、俺は咆哮しつつ駆け出した。
魔物もスピードを緩めずこちらへ向かってくる。
多分恐らくきっと十中八九怪我するだろうけど大丈夫!ミレーユがホイミで治してくれるさああぁぁぁ!!

ずるっ

「―――ぉぉぉぉおぉっ!?」

にっくき魔物まで後30pというところで、視界が急転した。
驚く間もなく体が何かに叩きつけられる鈍い衝撃が俺を襲う。超痛え。
とっさに手をついたからかろうじて頭は無事だったが、
体、特にケツとか背中の痛みがハンパないんですけどこれ!
どうやら踏み込んだ足がつるりと滑り、すっ転んでしまったらしい。どこまで情けないんだ俺は……。

どこからかきいきいという鳴き声が聞こえてくることから、魔物を倒すこともできていないようだ。
せめて転んだ拍子に会心の一撃を喰らわせるとかできればネタキャラとして際立っただろうに。
いやいやそれよりも!敵の前で無防備な姿を晒すとかやばすぎる。
俺は痛む体に鞭打ち、できるだけ素早く立ち上が……ろうとした。

俺の頭のすぐ上。
魔物が岩壁に両足を着き、耳障りな鳴き声を発しながら細っこい腕で槍の柄をぐいぐいと引っ張っている。
俺には魔物の言葉はわからないが、状況は火を見るより明らかだ。
賢明な君たちならもうお気づきだろう。
そう!こいつは壁に刺さって抜けなくなった槍を一生懸命引っ張っているのだ!
あ〜あ、そんな返しとかついてる槍使うから……。
呆れながらも、俺は舞い降りた幸運に頬を緩ませた。隙だらけのこいつなら俺でも倒せ―――

「……あ、あれ?」

武器を握り直そうとした右手が空を切る。
まさかと思いつつ目をやると、しっかり握っていたはずのブロンズナイフが忽然と姿を消していた。
慌てて周囲を見渡す。幸い、お目当てのものはすぐに見つけられた。
さっさと回収したいところだが、あいにくなことに手を伸ばしても届かない距離だ。
俺はそうっと岩壁と格闘し続ける魔物の下から這い出した。
気づかれないためにこのままゆっくり行くのもいいが、戦いはスピード勝負だ(多分)。
ぱっと立ち上がってぱっと走ってぱっと武器を回収した方がいいに決まってる!
善は急げと言うことだし、と俺は片膝を起こし、爪先に力を込めた。

「ききー!」

一際高い鳴き声と、何かがぱらぱらと地面に落ちる音とが耳に届く。
まさかと思いつつも嫌な予感を抱きながら、俺はおもむろに後ろを振り返った。
果たしてそこには見事岩壁から得物を救い出し、歓喜に小さな翼をぱたぱたと上下させる魔物の姿があった。
そう離れていない距離には丸腰な上に背中を晒した人間。
予想外のハプニングに散々フラストレーションを叩き込まれた奴が、それを見逃すわけもなく。

「きー!ききぃーい!」


俺\(^o^)/オワタ


「ヒャド!!」

その時、何かが魔物の顔を横殴り、どちらともが俺の視界から消えた。
やや遅れて、苦痛に叫ぶ悲鳴と何かが壁に打ち付けられる音が響く。
反射的にそちらを向くと、岩壁から地面にずり落ちた魔物がもんどり打っているところだった。
その痛々しさに思わず顔をしかめた。
魔物の顔―――頬に当たる部分が凍り付いている。やべえ、グロい。

「タイチ!大丈夫?」

見慣れぬ凄惨な光景に込み上げる吐き気をぐっと堪えている俺に、ミレーユが駆け寄ってきた。
さっきのはミレーユが?

「ええ、初歩の攻撃呪文よ。間に合ってよかった」
「ありがとう…マジで死ぬかと思った。命の恩人だな」
「まあ、大袈裟ね。気にしないで。仲間なんだから当然よ」

痛むところはない?と聞かれたので、
さっき転んでからジンジン痛む背中にホイミをかけてもらった。
暖かい感触に体だけじゃなく心も癒される気分だ。
治療が終わると、いつの間にか他の魔物を倒したらしいボッツとハッサンが近づいてきた。

「タイチ、これ」
「あ……俺のナイフ。ありがとう」
「まだ生きてる。止めを刺してくれ」







――――は?






思考が停止する。
ボッツは今、なんて言った?……トドメ?止めだって?

「……お前の世界は平和なんだな。羨ましいこった」

溜め息混じりにハッサンがつぶやく。俺は考えるのに精一杯で動けない。
止め?なんで?もう決着はついたじゃないか。
確かに魔物は凍れる痛みにもがき、身動きが取れないながらも、
まだかろうじて生きているようだった。けど、俺たちを襲う力は残っているようには見えない。
なのに殺せって?俺に?

「いいか、タイチ。手負いが一番危ねえんだ。
ここで見逃したところで礼を言われるわけでもねえ。いずれ報復しに来るぜ」
「で、でも」
「見ろ。こいつはまだ武器を離してない」

ハッサンの逞しい顎が、弱っている魔物、正確には魔物の手を指し示した。
一見ひ弱そうに見えるその小さな両手はしっかりと槍を握っている。
そして、俺たちを睨み上げる目からは憎しみがはっきりと感じ取れた。

きっと二人は正しい。
殺したいほど憎い敵に瀕死にされた挙句見逃されたとあっては、
こいつはますます俺たち人間を憎むようになるだろう。
その結果仲間を引き連れてこの洞窟を出て、近くの町や村を襲うようになるかもしれない。
そうなれば多くの人が死ぬ。
俺が中途半端な情けをかけたせいで、人が死ぬ。町が滅ぶ。

元の世界に戻るために魔王を倒す?ああ、口で言うだけなら簡単だ。
そのために俺は、相手が魔物といえどもいくつもの命を奪わなきゃいけない。

覚悟を決めろ、萩野太一。

震える両手でナイフを握り、深呼吸をひとつ。
おもむろに立ち上がり、瀕死の魔物に近寄り、そして。



「ぎぃいいいいいいいいぃぃぃぃぃいいっ!!!!」



肉を裂く感触が、耳を裂く断末魔が、全身を駆け巡った。



タイチ
レベル:5
HP:32/32
MP:13/13
装備:ブロンズナイフ
    くさりかたびら
    けがわのフード
特技:とびかかり