修士◆B1E4/CxiTwの物語



【安窓】

歴史、魂。
それは、かつて生きた姿の幻影なのだろうか。

物にはやがて、魂が宿るという。
それは、そのものの存在だけでなく、
それが与えるものにも魂を込めるのかもしれない。



遥か昔、地上を歩くものがその地に棲み付く前より、その風景は存在した。
その中心には、短い丈の草花をまとい、木立がところどころに見える、
奥に延びるなだらかな平地があった。

草原と言えるこの地には、野生の四肢の動物たちや
草の根の辺りを小さく歩き回る虫が、その姿を晒していた。
そしてときに、この中に魔物の姿が紛れることもあった。


ある日、そこに窓が置かれた。
この地に育つ木々から作り出された枠に縁取られた、粗末な安窓。
平地の上に、東からわずかに南東へ向いた窓。
この地に居を構えるべく移ってきた人々が作り出したものだった。

彼らは古代の牧歌的な信念を持ち合わせていた。
周辺の木々、草、動物たちと共生し、
家族や仲間の安全を願う意志がそこにはあった。

窓はその地の風景を切り取った。
まず、黄色い葉と深緑の幹の小ぶりなカラニナの木々が、すぐ隣にあった。
そして南のさらに向こうには、大樹イガングゥの青白い鮮やかな葉と、
その樹を中心としてまばらに建つ簡素な住居が見えた。
それはまさに、産声を上げんとする、人々の営みであった。

窓の外に人家は建ち続け、やがてひとつの集落となった。
開拓者の声と声に紛れ、遠くの平野には、魔物の蠢(うごめ)く姿が見えていた。

大樹の葉は風の日に往々と揺れた。その地に生まれた子供らに、
あたかも風が葉の色に染まったかのように錯覚させた。
明るいカラニナの葉傘の下は、夏になると、狭くも生命の憩いの場となった。

東の彼方、三つこぶ丘の縁からは、毎朝仄(ほの)赤い太陽が現れた。
西の彼方、時折鳥が飛び立ち群れる森に太陽が沈む頃には、
南の地平線、平野の動物たちの群れ、その背の向こうに、
薄赤い景色に紛れ、忘却色の月が浮かんでいた。

人々は、ときにその安窓のこちら側から、
ときに地平線彼方の群れる動物の中から、
ときに魔物との出会いを警戒しながら、
その風景の中に日々自分を溶け込ませた。


移り変わる建物や人々と共に、その安窓も新たに作り出された。
それは、たとえあの窓とは違えども、
魂とも言える佇まいは確かにあの窓であり、風景を切り取り続けた。

この地が村となった頃、窓の向かいに一軒の家が建てられた。
やがて育った家の娘は、村の男の一人に恋するようになった。
日夜、空に向かい物思いに耽(ふけ)る彼女の横顔が、窓の先にあった。

そして、二人の家が窓の遠くに構えられた。
時が経ち彼らの子らは、ある者は村に留まり、ある者は村を離れた。
彼らの血脈が受け継がれる様を、窓は確かに捉えていた。


時が流れ、窓はそこにあった。
風景が、人が、そして窓自身が幾度も移り変わろうとも、
窓は常にそこにあった。

旅の中継地としてこの地が名を馳せ始めた頃。
東からの太陽は、近くに建った石の塔で広く隠された。
商人や工人の奏でる喧騒の中にあって、
いつしかその窓は、町の後ろ姿を見ることが多くなった。

しばらくして、窓の隣に酒場ができた。
毎夜そこから溢れ出る、魔物を相手に一旗挙げんとする者どもの声。
下卑た叫び声とも呻き声ともとれる声らが四方八方へ飛び散り、
・・・・・・・・・・・・それは、安窓にぶつかってきていた。
路地の闇には、もはやただ隙間を縫うだけのカラニナの木々が在った。

やがて、この地にただ在った彼方の大樹イガングゥは、
栄える町に求められる木材として、町の人間に切り倒された。


暗黒時代。窓からの景色は、ある種の隆盛を迎えた。
家から、町から、勇み飛び出る人々。心弱く孤立する人々。
絶望に沈む多くの人々。退廃した世に、生ける死人として野望を求め
寄せては消える波の運命を持つ冒険者たち。

彼らを目当てに戦闘品を売買する商人や工人。
彼らとともに、遠き地について幻想じみた噂を語る旅人。
宿と酒場が、血と泥にまみれる硬貨を介して栄えていた。

町は彼らの町として、あらゆるものを取り込んでいった。
町の中には、ときに魔物の脅威が及ぶこともあった。


やがて暗黒の影は去り、魔物どもはその勢力を減らした。
彼らはかつてのように、町の外で蠢(うごめ)いていた。

結束し在った町は流転した。
在りし日の輝く戦いの記憶。孤立した世界に身を委ねていた記憶。
町の栄華は、かつての世界の流れの中にあった。

人は消えゆき、消えゆき、消えゆき、その流れは消えなかった。
町の賑わう様がかつてのように蘇ることはなく、
丘の彼方、あるいは森の彼方へと移っていった。

もはや窓の外には、残酷なまでに遅々とした衰退が進んでいた。
町はやがて村となった。影の多くは窓の先から失われた。
村はやがて集落と果てた。あの、初め在ったような集落へと。
その頃には、窓の向かいにはもう、何も建たなくなった。



東の彼方、三つこぶ丘の縁からは、毎朝仄(ほの)赤い太陽が現れた。
西の彼方、時折鳥が飛び立ち群れる森に太陽が沈む頃には、
南の地平線、平野の動物たちの群れ、その背の向こうに、
薄赤い景色に紛れ、忘却色の月がまだ浮かんでいた。

やがて、最後の人々がカラニナの木々に見送られ、この地を去った。



広場に打ち棄てられた、染みにくすんだ布切れ。
どこか建物の外壁から崩れ落ちた掲示板。
町の防護壁を担っていた、くず折れた石片の山。

陰気な一角の、苔にまみれ崩れ落ちた墓碑群。
かつて狭い路地のあった裸の地に埋もれかけた、子供の玩具。
人々の過去が、吹き荒む風に飛ぶ枯れ草の中にあった。

そして、この地を横切る動物や虫、魔物、空を舞う生命のあらゆるものが、
町のあらゆる残骸の上で留まり、走り、潜り、かじりつき、
もはやこの地の在った記憶が消え去った頃、
残骸の中にあったこの窓は、ついに木々の骸と化し、地に伏した。



数え切れぬほどの陽(ひ)と灯(ひ)の螺旋が巡った頃、
一人の太夫とその一行が、この荒れ地を横目に見つつ通り過ぎた。
大半が風化し尽くしたその地について、誰にも浮かぶものはなかった。
そこにはただ、無言のものが在った。



幻影は、そのものの意識がなくともありえるのだろうか。
ここに、ある安窓の物語は終わる。