修士◆B1E4/CxiTwの物語



【暗黒の希望】 [1]

ガーデンブルグ最大の大魔導師イレイノンは、奇妙な夢に悩まされていた。

くすんだ紫の霧の間に垣間見えるのは、無気味な青の海原に、一面鉛色の空。
それは、霧の向こうの不思議な海原であった。

己の立つその場所は、鈍く光る不気味な銀色の床に見えた。
確証が持てないのは、彼の体が、わずかに頭を振ることしかできなかったためだ。
彼は人形であった。

床と海を分かつ縁には、不気味な曲線で形作られ
退廃的な雰囲気を漂わせる、銀色の柵らしきものが見えていた。
それは、人間の常識を超越するものを感じさせた。

ここは、船のような乗り物か?・・・・・しかし揺れは感じない。
ならば今は停泊中なのだろうか。

そして彼は、はたと気がついた。ここが無音の世界だということを。
己の心に、由来の知れない嫌悪感が広がりつつあることを。
やがて頭を締め付け始めた不安と、こみ上げる吐き気・・・・・・

そして彼は、数十年ぶりに不快な寝覚めから飛び起きた。
彼の長いひげは、不快な睡眠のために喉に巻きついていた。
この日を境に彼は、この奇妙な夢を度々観るようになった。

イレイノンは夢を、心の抑圧や欲求が別次元で具現化したものと考えていたので、
この夢も、内容を体系的に評価して無意識下に存在する要因の明確化を試みた。
しかし、己の頭にある古今東西の名書・珍書の知識と、深い思索を用いても、
夢の中の嫌悪感とその無気味な情景について解析することはできなかった。

しかし彼は気づいていた。
海原を眺めさせられている時間が、次第に長くなっていることを。
恐れ、不安、すべての負の感覚が、初期よりも遥かに増加していることを。
彼の体は、日を追うごとに疲弊していった。


ある日。
イレイノンは、もはやうんざりとした夢の旅に出た。
紫の霧。海原。鉛色の空。銀色の船。広がる感情。しかしその日は続きがあった。

膨大な感情、強烈な臭いのような圧迫感が、海深くから浮かび上がる。
己の表皮全面が、何か得体の痴れない邪悪な瘴気(しょうき)に浸食されてゆく。
弄(もてあそ)ばれているような、感覚・・・・・・
音なき世界独特の、見えるものに対する恐怖。
何かが突如目の前に降り立ち、救いようのない精神の崩壊を与えるのでは・・・・

そして海面に、薄緑の影が見えた。

その瞬間、彼の理性は限界を超えた。
絞り出される強烈な叫び声。しかし、音の無い世界では無意味なことだった。
それに彼はただの人形だったので、目を逸らそうとする意志も無駄になった。

海面が盛り上がる。波が作った泡が弾ける。
邪悪なる瘴気の主。

ボゴボゴ・・・・ボゴ・・・・ボゴゴ・・・・・・荒立つ海面・・・
そして、ぬめぬめとした薄緑の体質が、今・・・・・・・

そしてイレイノンは飛び起きた。

それから数日、彼は寝ることを拒んだ。
魔道を歩む彼にとってそれは苦痛ではない。それにその間は、
徳高き彼の理性が失われることもない。しかしやがて彼は、
考えうる最高の魔法陣を部屋に何重にも施し、恐る恐る床に入った。
・・・・・・・その日彼は、夢を観なかった。


長いこと人嫌いだったイレイノンは、多少頭に残る程度の魔導師たちを訪ねた。
半ば伝説と化した魔導師の訪問を受けた皆は、その行動に驚きつつ歓迎した。
己に羨望の眼差しを向ける彼らの弟子たちに、イレイノンはうんざりしたが、
その労苦に見合う有益な情報を得た。

彼らの一部も同様の夢を観ていた。そして夢の質感の高さや情景の長さ、
つまり夢の成熟度は、各人の魔力と比例するとの結論が導かれた。
しかし、イレイノンさえも畏れおののいた夢の情景、
浮き上がる海面や瘴気振りまく物体を見た者は、ついに現れなかった。

これを機にイレイノンは、静かに見下していた皆と文通を再開した。