◆ODmtHj3GLQの物語



第三章〜Forbidden Fruits〜

「すまないな、真理奈。余計なことを頼んでしまった」
「もうアリアハンの王様に手紙送ったから大丈夫」

部屋にいるのはロマリアの王と女子高生という不釣合いな二人。

細やかな刺繍の施されたチェニックの上から、柔らかくて暖かいマントを羽織っている。
頭の上にあるべき冠は、あまり好きではないのか、無造作に机に転がっている。
ロマリア王ストゥルーストは窮屈そうに胸元のボタンを調節し、マントの締め付けを緩めた。
本来ならばもっとラフな格好が良いのだが、これから謁見が始まるために我慢しているのだ。

一方の少女が着るのは異国の服だ。
日本の、ある学校が指定する制服で、半袖の白ブラウスに赤チェックのスカートをはいている。
少しだらしなく緩めている赤いネクタイが、彼女の控えめな胸の間で揺れ動いている。
そして肩までストレートに伸びている髪を、これまた赤いヘアピンで留めていた。

本来ならば隣り合って並ぶことのない服を着た二人は、奇妙な縁で出会ったのだ。
王の年齢は少女の親ほどもあったが、今は王が少女を頼りにするという奇妙な構図だった。

「でも何で私に?
 別に護衛するだけなら誰か他にいるんでしょ?」
「本来ならしっかりと教育すべきだった。
 だが思いのほか忙しくてな、ってのは言い訳か。
 成長を見守らなかった私が悪いのだろう」

王の息子であり、ロマリアの王子でもあるフィリーの話だ。

「フィリーはイシスでも何だかんだと文句を言うだろう。
 だがここには王子に文句を言えるやつがいない。
 皆失脚するのは怖いからな」
「その点私なら文句も悪口も言い放題」

決して褒められないことを得意気に言う。
もちろん演技だろうが、間違いではない。

「真理奈だけには伝えておこう。
 実はな、フィリーの縁談相手は、女王の隠し子なのだ」
「隠し子?」

イシスは代々女王が治めている国だ。

「色々と事情があってな……
 その彼女と、フィリーとの出会いで、何かのきっかけになれば、と思っておる」
「なるほどねー女王様と仲良いんだ?」
「時折手紙を交わす程度だよ」

ポリポリと頭をかく様が可愛らしい。
少女は王をもう少しからかってみたくなるが、時間も迫ってきていた。

「なるほどね、でもそれは確かにフィリーが色々言いそうだわ」
「どうかよろしく頼む」
「了解ですよ、王様」
「真理奈、君はジパングに興味を示していたな」

異世界であるはずのこの世界を記した地図に、少女の故郷とそっくりの地形が描かれていたのだ。

「うん、そこが日本じゃないかってさ。私の家なのかも」
「調べさせておこう。何か君が必要としてることが分かればいいのだが」
「王様ありがとう! じゃあ行ってくるね」

友達と別れる時のような気軽さで、少女はバイバイと手を振った。
王に恩を返すために、少女は走り出した。


――♪――♪――♪――


第三章〜Forbidden Fruits・禁断の果実〜
Solitudinem fecerunt, pacem appelunt.かれらは砂漠を作り、それを平和と呼んだ。


――♪――♪――♪――


ロマリア領内にある数多くの港町の中でも、
このアクオルムという都市は、大きい方から数えた方が早いほどに規模が大きい。
潮流に恵まれた近海での漁が、昔より盛んに行われてきた。

魔王ゾーマが世界を支配していた時代には漁獲高が減ったものの、
ゾーマが滅びた後は海上の危険性が和らぎ、再び遠洋まで漁業を拡大することができた。
そうして活気は年々に高まり、比例するように人口は増加する一方だった。

「後輩ちゃん、アリアハンにもこの街みたいに元気なトコある?」

街の一角を並んで歩く三人の一人が仲間に訊ねる。
肩まで伸ばした髪は癖のないストレート。
大きく見開かれた目鼻立ちに、ぷっくりとした唇は元気さの証拠だった。
コロコロと変わる表情は見ていて飽きない。
やや落ち着きがないが、黙っていてはかえって心配されてしまうような少女だ。

彼女の名前は、能登真理奈という。

高校生をしていた彼女の人生は、ある日を境に一変することになる。
精霊ルビスによって、日本からいきなりこのアレルムンドに連れてこられたのだ。
頼れる知人が一人とていない世界へと突然放り込まれたことで、
彼女の立場は女子高生から異世界人へ変わった。

だが真理奈は新しい関係を作ることに長けていた。
ブラウスの左胸のあたりに勇者ロトの紋章を刺繍してくれたのも、
アリアハンで幾晩かお世話になっただけの宿屋の女将であったし、
アリアハン王レキウスから直々に世界連合設立のための大使の仕事を与えてもらってもいる。
おかげで新しい世界で生きるのに困りはしていないようだ。

そんな真理奈だからなのか、仕事で訪れたロマリアの王に新たな頼みごとをされたため、
こうして未だにロマリアに留まっているのだ。
本来であればアリアハンへ戻り、連合使節の仕事を本格的に始める予定であった。

「ピィィ?」

真理奈の肩に乗っているスライムも、彼女にひかれた一匹である。
弱小スライムとは言え、モンスター種であることには変わりがない。
その愛らしい顔つきに騙されて命を落とす者が毎年必ず出る。

真理奈がブルーという名前を与えたこのスライムは、
彼女に助けられた恩義を感じているのか、片時も側を離れようとしない。
以前は窮地の真理奈をかばうため、狂熊グリズリーの前に立ちはだかったこともある。
今では立派な仲間であり、
彼女がこのアレルムンドという世界に来てから、初めての友達といえるだろう。

本来モンスターは、その種族に関係なく、人間と敵対するものである。
だがブルーに限らず、中には人と仲良くしているモンスターもまれに存在している。
それがモンスターの個性によるものなのか、
それとも人間が歩み寄ったおかげなのか。
いまだ正しい答えは出ていない。

ブルーが真理奈の髪を口に含んで、引っ張った。
最近のブルーは噛み癖がついてしまったらしく、手当たり次第に噛み付くようになった。
意思疎通ができない訳ではないので、何度も説得しているが、なかなか直らない。
日本にいるペット好きな友人に対処法を教えてもらえればいいのだが、
今は携帯電話は繋がらない場所にいるので、それもできない。

「アリアハンはまぁ田舎みたいなもんだからなぁ。
 昔はけっこう凄かったみたいだけど」

ブルーとじゃれる真理奈に返答したのは、アリアハンで警備兵として勤めている青年。
真理奈の分も含めた手荷物の一式を手に提げながら歩いているが、
袖から伸びる腕や服の下に隠れた筋肉には、さほど負担になっている様子がない。
短く刈り込んだ頭にも、汗ひとつ浮いていなかった。

後輩ちゃん、と真理奈に呼ばれたこの男も、彼女に出会ってから数週間と経っていない。
だがこうして真理奈と一緒に旅に出るほどの関係となっている。
本人にしてみればしぶしぶ付き合わされているという感覚で、
真理奈に振り回されるのもアリアハンに戻るまでの辛抱だ、という風に考えているようだ。

だが彼も心中では真理奈のことを気にしており、少なくない好意を寄せている。
彼自身はそのことをまだ自覚していないが、
真理奈の初仕事に同行することを仕事として承諾したのも、
今こうして引き続き真理奈の予定に合わせているのも、そういう理由があるからだった。

「へぇぇ、次行く国はどんなんだろうねー楽しみ。
 ねぇ、イシスってどんなところ?」
「俺もあんまり知らねぇが、これだけは言える」
「なになに?」

期待を込めた目で見上げてきた真理奈に、後輩ちゃんは自信たっぷりに答えた。

「美人が多い」
「……」

真理奈が返答に困っていると、もう一人の同行者が声をあげた。

「美しい人と書いて美人!
 美しさこそ神の与えたもうた至高のものではないか!
 イシスがそのような国であったとは、まだまだ僕の視野は狭かったようですね。
 愛はイシスで見つかる、とはそういう意味だったのか。
 ありがとう父上! 僕は愛に生きます!
 さぁ同志よ、一日も早く海を渡ろうではないか!」

声高らかに何やら思うところを吐露しているのは、ロマリア国の王子様。
本名をフィリアス3世といい、気軽にフィリーと呼ばれることを好んでいる。
他の色が混じらない綺麗な金髪は、ロマリア王族の血筋を確かに示していた。

通りを行く人々の多くもフィリーのことに気付き、
彼に目線や指を向けて何事かを囁き合っている。
当然王子であるがゆえの知名度もあるが、
それよりも先日、ロマリア国中の娘とお見合いしたことの方が大きい。

王家に近づけるチャンスに沸いたロマリア全土だったが、結果誰一人選ばれることはなかった。
それどころかロマリア王が相手を用意したという話が瞬く間に広まったことで、
フィリーに対する評価は降下をたどる一方であった。

ただそんな風評を気にする風もなく、フィリーは我が道を進むつもりのようだ。

「後輩ちゃん……美人が多いって、それ王子にも言ったんでしょ」
「砂漠になんか行きたくねぇって言ってただろ。
 だからイシスの素晴らしさを教えてやっただけさ」 
「何だ、後輩ちゃんも行きたかったのか」

真理奈はフィリーの単純さや、後輩ちゃんの下心を含んだ目に呆れつつ、
それに対して文句を言うようなことはなかった。
なんにせよ、とりあえずイシスに向かうことが重要なのだから。

「お、あれ」

交差点を右に曲がったところで、後輩ちゃんが指さすまでもなく、巨大な船が目に入った。
その船は海に浮かべてあるのではなく、広大な敷地の一角に居座っているのだ。
陸の上で張られた帆には、海鳥をモチーフにしたマークが描かれていた。

「確かにあれなら一目で分かるな。女将さんの言った通りだ」

船を手配するならどこが良いかと、ロマリアに来てから利用した宿屋でたずねたところ、
順路を詳しく書き込んだ案内図を渡してくれた。

先日行われたロマリア全土を巻き込んでのお見合い会に乗じて、
真理奈はロマリア王との接触の機会を持ったことがある。
その際に真理奈はわざわざドレスを購入し、
表面上はお見合いに参加するという風に取り繕ったのだ。

もちろん二人が婚約することなどないのだが、
一部では真理奈とフィリーのお見合いが秘密裏に成功したのだという噂が立った。
真理奈がロマリアで宿泊した宿屋の女将はそれで早とちりしたあげく、
恩を売る為に、そして自身の宿屋の名声を広げるために協力を惜しまなかった。
そして彼女は知りうる限りで一番に高級な船を取り扱う商会を教えてくれたのだ。

巨大船舶の側に立てられた建物に入る。
ここで船を借りて、イシス国まで海を渡ろうという計画だ。
ロマリア王族ご用達の船は王から使用を禁止されている。

「失礼します」
「はい、いらっしゃいませ。
 笑顔と実績のダン・ロダン・モダン団へようこそいらっしゃいませ。
 私どもの船はどれも一級品にして、手頃なお値段となっています。
 お客様が私どもの船をお選びになったのは間違いございません」」

迎えてくれたのは初老くらいの女性オーナーだった。
メガネの奥にある優しげな目と、ホホホという笑い方が印象的だ。

「外に置かれている特級船舶はこちらのものでしょうか。立派ですね」
「えぇ、そうでしょう。
 あれは式典のような特別な時にしか使われないものですから。
 三年ほどかけまして造り上げた私たちの誇りとも言うべきものなのです」
「道理で。あの船に乗せていただきたいのですが、可能でしょうか」
「いえいえ、メンテナンスを欠かしたことは一日たりともありませんが、
 普段はもっぱら客寄せとして置いてあるものですから。
 しかしあの他に所有している船たちも立派なものです。
 そちらをご利用になられた方がよろしいかと」
「それは困りましたね。
 あの船ならば、姫を迎えに行くのにロマンチックだと思ったのですが」

姫を迎えに行く、という言葉がオーナーの顔色を変える。
そこでようやく来訪者が王子だということに思い当たったようだ。
知り合いの宿主の話では、異国の少女との婚約者が決まったということだったが、
その方のもとへ参られるのだろうか。

「近頃は魔王の復活により、海にもモンスターが溢れ、大変な荒れようです。
 ですがあの特級船舶ならば、世界一周することぐらい訳はないでしょう」
「ありがとうございます。危険手当も込みで金額を提示してください。
 その通りに用意いたしますので」

ロマリア王が王族専用の船の使用を禁止したのは、
フィリーにとって刺激になるような経験を積ませたかったからだと真理奈は思う。
しかしそんな意図に気付かないフィリーは、権力を存分に振りかざして交渉を進めるため、
ロマリア王の目論見はまったく当てが外れてしまっていた。

「あーあ、無茶苦茶やってるぜ」
「あんなにヤル気だすなんてさ、ホント男って綺麗な人が好きなんだね」
「否定はしない」
「ま、旅行できるなら私は何でもいいけどさー」

特に王子のやり方に干渉する気もないのだろう。
真理奈は頭の後ろで手を組み、のんびりとあくびをした。

「あのなぁ、いい加減仕事意識持てよ。
 ロマリアとの交渉上手くいった、なんて思ってるかもしれないけど、
 あんなやり方がいつまでも通用する訳ないだろ?」
「でも今回は王子の護衛するだけだもーん。
 かしこまる必要もないし、楽勝だって」

真理奈の意識の低さにため息をつく後輩ちゃん。
後輩ちゃんは記録係であって、教育係ではない。
真理奈が連合大使として適正を判断するのはアリアハン王を始めとしたお偉い方であって、
ありのままを報告する以上の義務を持たない。

だから真理奈にはもう少ししっかりとしてもらいたいと思いつつ、
あまり強く注意することができないでいた。

「真理奈様ー。真理奈様〜!」

船の手配はフィリーに任せることにして、店の外で待つことにした。
暇を潰していると、通り中に響き渡る声で名前を呼ばれ、真理奈は振り返った。
一人の少年がこちらに向かって走ってくる。

「あぁ、ようやくお会いできました」

安堵の表情でにっこりと微笑んでみせる少年に、悪意は感じられない。

「アリアハン王より真理奈様へお言伝です。どうぞ」

荷物袋より取り出した、赤ん坊ほどの大きさを持った包みを真理奈へと差し出す。
そこにはアリアハン王室の紋章が記されていた。

「こっちの手紙ってこんなに大きいの?」
「んな訳ないだろ」
「贈答品も包まれていると聞いております。
 後ほどご確認ください。
 それから、私は明日帰国いたしますが、何かお言伝はありますか?」
「王様に?」

そうです、と少年。

「じゃあ、ありがとーって言っといて」
「馬鹿。まずは手紙読んでからだろ?」
「あ、そっか。何だろね」

後輩ちゃんの最もなツッコミを受け、真理奈は封を開けて手紙を読む。
読みにくくない程度に達筆な字だ。


『能登、ロマリアでの仕事ご苦労だったな。
 能登が連合使節団の出立に間に合わなかったのは残念だが、
 ロマリアの信頼をより深く得るためだと言うならば仕方あるまい。
 旅の方で何か不都合があれば、すぐに誰かを頼るようにしてくれ。
 必要ならば私の名前を出しても構わない。

 私が能登に望むことはただ一つだ。
 君には人の繋がりを築いてほしい。
 そのために私は助力を惜しむことはないだろう。
 今はともかく立派にロマリア王の命を果たしてくれ。
 そしてアリアハンに無事に帰り着いてくれ。

 ――追記
 能登に似合いそうな武器を送らせる。
 少し珍しい物だが、能登にとっては剣や槍よりは扱いやすいはずだ。

 アリアハン王 アキレス』


最後に流暢なサインでしめくくられていた。

「ふんふん、りょーかい。
 じゃあ、ありがとう! って伝えてくださいな」

後輩ちゃんは頭を抱え、少年は楽しそうに笑った。

「けどあれだね、よく私が分かったね?」

それはもう、と一段嬉しそうな顔をして少年は言った。

「実は真理奈様にお会いしたくて、この役に志願したのです。
 赤の映える異国の服を着た可愛いお方だと聞いていましたので、
 遠くからでも一目で真理奈様だと分かりましたよ」

それでは失礼します、と最後まで丁寧に締めくくって、少年は街中へ消えてしまった。

「可愛いだって〜!」
「お世辞が上手いヤツだな」
「後輩ちゃんもそういうの勉強しないとモテないよ?」
「兵士は口先を武器にしたりはしないもんなんだよ。
 それにどうせ兵士長クラスになれば女には困らないしな」
「へぇー、権力に弱い女を周りに置いて満足するんだー」
「ガサツな女よりは良いと思うけどな」
「減らず口」
「ねぼすけ」
「ピピィ〜……」

ブルーのため息が空に消えていった。


――♪――♪――♪――


三本のメインマストに張られた三角帆が綺麗な弧を描き、風の形を教えてくれている。
潮風を上手くつかんでいる帆の白さが、突き抜ける空の青さと対比されて美しく映える。

既に航海は軌道に乗ったようで、乗組員たちも一息ついているようだった。
式典用の船とは言え、海を渡るには申し分ない造りになっている。
外観は流麗にして、いたるところに芸術的な意匠が施されていた。
寝所も一流の家具を備え付けてあり、汚すのをためらってしまうくらいだ。

デッキに寝転がり、宙に伸ばした手の中でブルーをもてあそびながら、
真理奈はのんびりと時を過ごしていた。
太陽が南天にかかっているのが、青く透き通るブルーの体を通して確認できる。
髪をなびかせるくらいの風量があるので、日差しに参ることはない。

「おーい真理奈ー、ちょっと柔軟付き合えよ」

ダラダラとしている真理奈に後輩ちゃんが声をかける。

「えー? 今遊んでるのにー」
「寝転がってるだけだろ?」
「ヒドイ! 私とブルーの仲を引き裂こうっていうのね!」
「ピィ!」

芝居がかった声で抗議しつつも、真理奈は起き上がり、協力する意を示した。
足を伸ばして座った後輩ちゃんの背中を前に押してやった。

「うわ! かたっ!」
「最初はこんなもんなんだよ! いいから押せって」

金属でも入ってるのかと言いたくなるような体を馬鹿にしながらも、
痛い痛いとわめくのを期待してぐっと押してやった。
だが楽しもうと思った悲鳴は聞こえず、
深呼吸する後輩ちゃんの体が徐々に柔らかくなっていくのを感じた。
その脇では真似事をしたいのだろうブルーが、ツノを前に折りたたもうとしていた。

「船は退屈すぎてダメだな。体がなまる」
「でも気持ち良いじゃん」
「あの馬鹿が金使いまくったせいで仕事もないもんな」

真理奈たちはこの船では特別待遇を受けていた。
荷物の積み込みから、航海の手伝いから、食事の用意から、ベッドの支度まで。
金さえ積めば自ら指一本動かすことなく散歩させてくれるかもしれない。
そう思えるほどに至れり尽くせりだった。

それもこれも、後輩ちゃんが馬鹿と称した、ロマリア王子のおかげである。

「イシスの姫ってどんなだと思う?」

ゴムをゆっくりと伸ばすように、後輩ちゃんの体がほぐれてきた。

「なぁに、美人かどうか気になるの?」
「違うって。お姫様の相手がアイツじゃかわいそうだと思ってな」
「気に入らなければ断ればいいだけのことでしょ。
 お姫様以外にも美人が多いらしいし、そこからお似合いの人が見つかるかもよ?」
「馬鹿、こんなの政略結婚に決まってるだろ?」

馴染みのない言葉に真理奈はキョトンとした。

「政治的な側面が第一に考えられた結婚のことだよ!
 個人の意思なんか関係ないから、お姫様が気の毒なんじゃねぇか」
「え〜そんなの酷いよ!!」
「イシスは今他国の助けが欲しいと思ってるに違いないからな。
 お姫様とアイツをくっつけて繋がりを持とうって話だろう」
「それじゃあいけにえじゃん!」
「まぁそんな話でもない限りアイツに嫁さんなんて来る訳ないんだから、
 別に良いんじゃないのか?」
「良くない!」
「じゃあお前が嫁ぐか?」

うっ……と言葉を詰まらせる真理奈だった。

「やぁお二人さん、素敵な風ですね」

そこに噂の王子が、自慢の金髪を潮気たっぷりの風になびかせて挨拶をしてくる。
フィリーはすこぶる機嫌が良さそうだ。
最近は真理奈たちに対しても馴れ馴れしく接してくる。

「やはりこれからは国際的な視点を持つべきですね。
 ロマリア国内にしか目を向けていなかった自分が恥ずかしい!」

甲板の上でミュージカルのように身振り手振りを交えながら心情を吐く王子。
嫌味を言われるよりはいいが、その芝居がかった表現に真理奈はうんざりする。

「そういえば僕のおわびの品は気に入ってもらえましたか?」

先日、フィリーは真理奈に対して失礼を働いたので、そのおわびをしていたのだ。
もっとも当人はちっともわびる気などなく、
逆にプレゼントをしてやったんだと言わんばかりの言い草だ。
しかし真理奈の方もカバンにつっこんだまま、放置していた。

「あ、まだ開けてなかったー」
「……」

王子のリアクションが止まる。
今までそのような対応をされたことがないのだろう。

「えーっと、今開けてみるね」

最初から開ける気などなかったのだが、催促されては仕方がない。
学校指定のバッグから取り出して、包装を解き、中身を確認してみる。

「え、ルーズソックス?」

しかし以外な物が目に入り、真理奈は驚いた。
この世界では自分以外にはいているのを見たことがない物であり、
真理奈にとっては親近感のある物だ。
今も彼女の足元にはルーズソックスがある。

「喜んでいただけましたか?
 随分とくだびれているようでしたので」
「そうなんだよ、ありがと〜助かる!」
「いえ、お気になさらずに」

その会話のやりとりもどこかおかしいと後輩ちゃんは思いつつも、
出来る限りは王子と関わらぬ方向で接することに決めた。

「しかし、真理奈さんにルーズソクッスはお似合いですね」
「そう? ありがと」

他の服に身を包むこともあるが、基本的に真理奈は彼女の通う高校の制服を着ている。
今いるアレルムンドという世界でただ一人、彼女だけが異質な存在である。
その疎外感に苦しまないで済んでいるのは、
元の世界との繋がりを証明している制服のおかげでもある。
この制服を着ている限り、自分には帰るべき世界があるのだと感じられるからだ。

「意外と王子のこと好きになれるかもね」
「物に釣られやがって……」

嬉しそうな顔をして前言撤回する真理奈に、今度は後輩ちゃんが呆れた。
その時、穏やかだった海の波間にはまったのだろうか、ぐらりと船が揺れる。
皆が何かに手をついたり転んだりする中、
真理奈だけは片足立ちで見事にバランスを取ってやりすごしてしまった。

「へへー、勝ちー」
「いや、勝ちの意味分からんし」

得意げに笑ってはいるが、今の対応力は相当なレベルだったと後輩ちゃんは思う。
もちろん体重が軽いことや、女性特有の柔らかさ等も起因してくるものだろうが、
それこそ一種の武器になるくらいの強みであるはずだ。

だが当人はそんなこと思いもしないのだろう。
無様にこけた後輩ちゃんとフィリーを見てケラケラと笑っていた。

「ふっ?」

夜。
真理奈は目を覚ましてしまった。
ブルーが気持ちよさそうに寝息を立てているのを見て、シーツをかけ直してやった。

真理奈は夜中に一度起きてしまうと、すぐには眠れない。
気分転換に甲板に出て、夜の海を見てみようと思った。

夜の見張りに立っている乗員に声をかけつつ、船首の方へ足を進めた。
風が少し肌寒く、上着を羽織ってくるべきだったと後悔したが、
空に輝く月と、それを鏡のように映している海が綺麗で、見とれてしまった。
どの世界に行っても、自然の美しさは変わらないのだと、そんなことを思った。

その時、ブブルッと携帯電話が震えた。
メールの着信を告げたようだ。
何日か振りのメールだったが、真理奈が心を躍らせたのは差出人を確認するまでの数秒で、
画面にルビスという表示を見てしまえば落胆もいいところだ。

メールを開いてみると、本文が空白な代わりに、ファイルが添付されていた。
開くと見たことのない女性が写っている。

髪は赤々としていて波打っており、揺らめく炎を連想させる。
肌は白く、荒れることを知らぬ海のようになだらかで、
全てを包み込むような微笑は思わず見入ってしまうほどに優しい。
まさに誰もが思い浮かべる女神像だった。
ただ一点、左手でピースサインをしていることを除けば、の話だが。

続いて着信を告げるメロディが流れる。
相手は確認せずとも分かっている。

「こんばんは真理奈、ルビスです。
 メールは見てくれましたか?」

常に圏外を示しているこの世界で、着信があればルビス以外が相手ではないのだ。
しかし、もしかしたらという思いが真理奈に淡い期待を抱かせてしまう。
真理奈はルビスより、日本の知人と話がしたいのだ。

「見たよ、あれなに」

冷たい声で接するが、ルビスはお構いなしだ。

「ついに写真メールというものを覚えたのです。
 そもそも写真という概念が理解しがたかったのですが、これは面白いものですね。
 何度説明書を読み返したことか」

操作に苦労した分、成功した喜びが大きいのだろう。
ルビスの声はこれまで以上に陽気だった。

「その写真メールがあれば真理奈をルビスの遣いだと信じない者はいなくなるでしょう。
 ぜひ待ち受け画面に設定してください」
「よく言うよ……」

ルビスは真理奈を勝手にアレルムンドに召喚した張本人である。
だが彼女は真理奈と仲良くなるという名目で何かとちょっかいを出してくるばかりで、
肝心の魔王のことなどは一切口にしてくれないのだ。

メールが送れただの、絵文字が使えただの、留守番電話を残しておいただの、
あげくの果てには自分の写真を使えと言う始末。
ルビスの遣いうんぬんは後から考え付いたことで、
ただ真理奈に写真を見てもらいたいだけに違いないのだ。

「誰が好き好んでアンタの写メを待ち受けにしなきゃいけないんだよ!」
「真理奈は誰か好きな方がいるのですか……?」
「いーなーいー!! 何でそうなるんだよ!!」
「ならばいいのです。後で真理奈も写真メールを送ってください。
 私も真理奈の顔を見たいですからね」
「だから私が待ち受けにする前提で話をするなっての!!」

ボタンを押して通話を終了させ、そのまま電源ごと落としてしまう。

「もう寝るっ!!」

誰に言うまでもなく宣言し、真理奈は寝床に戻った。


――♪――♪――♪――


かつて魔王ゾーマが人間世界を脅かした時代は数十年に渡って続いたため、
国と国を結ぶ道は全世界規模で気軽に踏み入れられなくなっていった。

ロマリアからイシスへ向かう際も、陸路ではアッサラームを経由するのが普通だが、
護衛を雇ったり、聖水を振りまいたりと、
腕に自信がなければ何らかの対策を講じなければいけなかった。
キノケトゥスという、魔物を遠ざける効果を持つ石を敷き詰めた街道を造る場合もあったが、
そこまで余裕のある国は少ない。

ロマリア〜イシス間の海路も開かれていて、基本的には穏やかな海域であったが、
そこにモンスターが住み着いているとなるとやはり話は別物である。
護衛が何人いようとも、聖水を進路に流そうとも、いくら腕に自信があろうとも、
船そのものが転覆してしまっては全てが無意味だからだ。
海路は陸路よりも危険なのだ。

しかしその元凶となるモンスターが影を潜めた後は、
新たな商業ルートとして海路は復活の兆しを見せた。
他国との貿易がいかに利益を生み出すのか、人々は魔物が現れる以前から知っていたのだ。

船が大量に造られ、港に人が集まりだし、次第に活気溢れる町がいくつも形成された。
だが再び海のモンスターが出現するようになった今、港町は一気に不況の空気に包まれていた。
魔物対策が十分に施された船だけが航海の途中で一度も襲撃を受けることなく行き来できる。
しかしそんな金持ちは一握りだけしか存在しない。
多くの人は仕事を失い、今では日中から通りで酒をあおる日々を送っている始末だった。

幸いにも真理奈たちの乗った船は、順調にイシス国の港町に到着した。
天候にも恵まれたこともあるが、やはり投じた金銭の量で安全を買ったといった方がいい。
ここからは陸路だが、イシスへ向かう一つの手段として、犬ソリというものがある。
スキー板を履き、犬に引かれながら砂漠を滑走していくのだ。

港で聞いたソリ屋を訪ねると、やさぐれたオヤジが酒瓶片手に酔いつぶれていた。
ご多聞に漏れず、この店も儲かっていないのだろう。
最初は冷やかしだと思われたが、王子が自信たっぷりに身分を明かして、
どうにか話を聞いてくれるようになった。

「犬の種類は?」
「バリィドッグだ」
「バリイドドッグだろ?」
「そりゃモンスターの方。本来なら土の下で眠っているはずなのによう」
 あいつらはずっと人サマに仕えてくれてたんだぜ?
 それを人殺しの道具にしやがって!」

感情的なのは酔っているからなのか。
犬たちがゾンビとして墓の下から掘り起こされることに覚えた怒りを隠そうとしなかった。

「ご主人、大切なパートナーをお借りします。
 大丈夫、きっとルビス様が見守ってくださいますよ」
「ちっ、もう行けよ」

精霊ルビスの名前を出されては重い腰を上げざるをえなくなったのか、
オヤジはその後何も語らずに準備をしてくれた。
フィリーはオヤジの心を知ってか知らずか、多めの金銭を置いてきた。

イシスは砂の国という印象で他国から見られているが、その実は水の国というのが正しい。
確かにイシスは砂漠に囲まれているため、乾いた土地で外界から遮断されているが、
その内にはオアシスを中心とした水の流れが確固として存在している。

過酷な外の世界から、中に住まうものたちを守るように生い茂る木々たち。
水辺には南国特有の花や果物が種々咲き並び、甘い香りを撒き散らしている。

城へはもちろん、城下のいたる所へ水道が敷かれ、清らかな水をいつでも使うことができる。
限りある資源を効率的に利用しようと突き詰めた結果として作り上げられたのが、
世界に誇れる水道整備力だった。

清浄な水の流れは、人を良くする。
イシスにおいては、女性に対して良く働いた。
かの地に美女ありと噂されるのは、
砂漠の奥深くへと渡ることが困難であるがゆえに、誇張されてしまった部分がある。
だがそれは決して歪み伝わった事象ではないのだ。

枯れ果てた地に残された最後の楽園。
それこそがイシスの真の姿である。
楽園の夢を見、道中で天へ召された者、地の底へ落とされた者も少なくない。

一人につき、三頭のバリィドッグに引っ張られながら、足に履いた細長い板で砂漠を滑っていく。
リードによって相互に意志伝達し合わなければ、上手く滑ることはできない。
下り斜面を降りていくスキーとは違い、時には急な上り坂を超えることもある。

体重移動のコツが掴めない後輩ちゃんとフィリーは、
何度も何度も転倒を繰り返した。頭まで砂まみれになった。
真理奈は犬たちが走りたい方向を瞬時に把握できたため、こける回数は遥かに少なかった。

イシスまでの道のりは把握しているのだろう、迷う素振りも見せずにバリィドッグは走り続ける。
犬たちの連携は見事で、よく訓練されているのが分かった。
そんなところでもオヤジの犬たちに対する愛情が見て取れた。

バリィドッグたちは魔物の匂いにも敏感であった。
モンスターの生息する地域を大回りに避けて走行するなどの配慮も見せてくれた。
その分時間がかかりはしたが、砂漠の中で食料となることはなく、
無事に王都イシスへと到着することができた。

イシス王宮に入り、召し使いたちに手伝われながら湯を浴びて、体の砂を落とした。
その後いよいよ女王と対面する運びとなった。
イシスは女王を始め、王宮での主な役職を女性たちが担っている。
だからなのか、アリアハンやロマリアとは違って、
王宮の中には色とりどりの花がそこらじゅうに飾られていて、華やかであった。

客がロマリアの重要人物ということもあって、王座の間には高位官が立ち並んでいた。
その誰もが整った顔立ちをしていたが、どこか無表情に近い。
フィリーが女王の御前に進み出て、ひざまついた。
女王の姿を一目見てしまえば、その美貌に全てを奪われ、身動きが取れなくなりそうだ。

「お目にかかれて光栄です女王様。
 このように歓迎していただき、心より感謝の意を述べさせていただきます」
「ようこそいらっしゃいました、ロマリア国第一王子フィリアス様」

そう発言したのはイシス女王その人ではなく、側に控える侍女だった。
彼女は教えられた語句を一定の調子で繰り返して発音する。
そんな子供特有の喋り方でしか喋れないような年である。
女王が侍女に耳打ちしている様子はないが、
侍女の言葉は女王のものとして発言されている。
これがイシス国の慣わしなのだろう。

「ロマリア王より文をいただいております。
 我らファラオの子と婚姻をお求めだとか」
「えぇ、共に愛を育むことのできるお方がイシスにこそおられると信じております」
「ですが、困りましたね」

代弁者の応答はしっかりとしたものだが、子供と対談することに違和感はぬぐえない。
しかしフィリーは疑問や文句を口にすることなく、いつもと同じ調子で答えていた。
目線も侍女ではなく、女王にしっかりと向けられている。

「困るとはどういう意味でしょう。話はついているのではないのですか?」
「我らイシスは、代々近親婚によって血を守り続けてきました。
 他民族との交わりは、偉大なるファラオから遠ざかることになりますから」

イシスは血の濃さが一番重要視される。
血が薄まってはファラオの意志を聞くことができぬ、という考えに基づくものだった。
ゆえに近親相姦を良しとし、王宮の外で交わることは汚れを意味していた。
親類でない者との子を残すことは特にタブーとされている。

「それでは、縁組はお受けいただけないのですか」
「前例のないことです」

ロマリア王は話を進めてあると言っていた。
それはイシス側の了承を得られたという意味だと解釈していたが、
まさかこの時点で断られるとは思っていなかった。
フィリーは動揺を隠せない。

「……ですから、まずはファラオの神託を伺わなければなりません。
 長旅のお疲れもあるでしょう。
 今宵は宴を用意させますので、ゆっくりとお休みください」

感謝の言葉と共に退席するフィリーの顔は曇っていた。
玉座の間の入り口近くで控えながらその様子を見ていた真理奈は、
女王の冷たい目が気になって仕方がなかった。
女官たちの雰囲気が張り詰めて見えるのは、女王の持つ気質に影響されてのことだろうと感じた。

その夜、真理奈たちは熱烈な歓迎を受けた。
女王は顔すら見せない宴だったが、それが返って場を盛り上げる要因になった。
王女のマテルが参加したのも大きいだろう。
女王とは違い、マテルは周りの者からも慕われているらしく、
彼女を中心に宴は進行していった。

噂に違わぬ美女のマテルが、情熱的なダンスを舞う。
女王の言葉を引きずっている王子の手を取り、踊りに誘った。
ロマリア王宮内で習った踊りと勝手の違いにとまどっていたが、
それでも姫たちに囲まれて、フィリーはまんざらではなさそうにしていた。

前例はないが、ファラオとやらの許可が下りれば婚姻は不可能でなくなる。
そう考えを切り替えれば、目の前の少女が自分の妻となるのだろうかという期待が膨らみ、
次第に王子の気分を高揚させていった。

楽しんだのは王子だけではない。
後輩ちゃんと真理奈も、宴の持つ躍動感に心を躍らせていた。
なんと言っても、食事のおいしいこと、おいしいこと。

砂漠の奥にありながら新鮮な魚介類の盛り合わせから始まり、
牛肉の煮込みに、各種ディップをつけて味わうパンは熱々で美味しく、
細かく刻んだ米とパスタを混ぜ、その上からソースをかけた料理は特に真理奈を喜ばせた。
フルーツのしぼりたてジュースはもちろん、酒もふるまわれた。

ほろ酔いになった後輩ちゃんは、真理奈の相手をする訳でもなく、
これから街の社交場へとおもむくという。
そこでトランプやチェスなどに、夜が明けるまで興じるのだという。

そんなこと言ってやらしいことするつもりでしょ、という真理奈の問いには、
イシスの正確な情報を持ってアリアハンへ帰らないとな、とニヤけ顔で答えた。

料理にダンスに音楽にと、もてなしを楽しんでいた真理奈だったが、
皆が思い思いに過ごしているのを見て、置いてけぼりにされた気がしてしまい、
お腹が適度に膨れたところで席を辞して、散歩に出かけることにした。
あの調子ならフィリーは一人残しておいても問題ないだろう。

砂漠の夜は日中に比べて寒い。
だが、季節が夏だというのが幸いしてか、スカートでも苦痛になるほどではなかった。
寝静まるにはまだ早いのだろう、昼間に浴びた熱が冷めるまで、
イシス民は街の明かりを消すことはないのだ。

デートの最中なのだろう、腕を組んでる男女が幸せそうに寄り添いながら歩いていた。
真理奈はそれで、ふと昔を思い出した。

通っている高校で真理奈は、特に部活動に参加していなかった。
彼女の身体能力を欲しがる部活はたくさんあったが、真理奈は友達と遊ぶ方を選択したのだ。
だが彼女は自分の場所を作るが上手い。
何かの折に触れて人の繋がりは膨らんでいき、クラスや学年を超えた付き合いを持っていた。

その中でも、えらく真理奈のことを慕っていた男子がいた。
本人に対してはもちろん、周囲の者にまで真理奈に対する好意を明らかにする男であった。
底抜けに陽気であり、いつも笑顔が絶えない彼に、
好きだと告げられたその時ばかりは真剣な表情で、
真理奈も思わず胸をドキリとさせられた。

だが彼は弟のような存在であって、側に置いておきたい気持ちにさせてくれはするが、
異性として意識することはできそうになかった。

真理奈は他人に対して一つの付き合い方しか知らない。
好きか嫌いか、特別かそうでないか。
彼女にとってはその線引きだけが重要なのであって、好き嫌いの中に優劣はつけない。
なのにそれ以上の付き合いを求められても、どうすれば良いのか真理奈には分からない。

「今でも笑ってっかな〜」

真理奈の特別な場所にいられないと分かった彼は、
ぱったりと真理奈の側を離れてしまった。、
だけど今でも、可愛い弟として彼は真理奈の"好き"の中に居続けていた。

月に雲がかかり始めたので、真理奈は与えられた寝床へ引き返そうとした。
眠そうにしていたブルーは部屋に寝かせて来たが、
あまりに長い時間離れていると寂しがってしまう。
そういえばブルーの笑顔は、あの弟君に似ているのかもしれない。

(やっぱ付き合うって言っときゃ良かったのかな?)

その時月明かりが雲にさえぎられ、闇夜が勢力を増した。
しかしそれもほんの一瞬のこと。
再び月が顔をのぞかせると、真理奈の前に青年が一人立っていた。
暗黒に紛れてしまえば、溶けて消えてしまいそうな存在感のなさに、
真理奈はとっさに警戒する。

「男を誘っているのではない、だが感心すべきことでもないです」

その声は細く、本当に他人へ意志伝達する気があるのかと問いたくなる。
周囲への迷惑を考慮したという風でもなく、普段からこうなのだろう。
順序立てて説明することを省き、初対面の者にただ言いたいことを言ったというその態度が、
真理奈に嫌いの線を引かせた。

「旅行者であっても、その土地の習慣を知らなくていいことにはならない。
 無知であることは罪であり、時としてそれが罰の対象になることもありますから」

青年が真理奈に全身をすっぽりと覆い隠せるようなローブをかけた。

彼の突然の行動に反応できなかったことに、真理奈は愕然とした。
隙を見せた覚えは無い。
むしろ、いつでも対処できるよう身構えていたはずだった。

「その格好では娼婦に間違えられます」

青年と話していると、何人かの通行人が舌打ちをして、通路の闇へと消えていった。
どうやらこの一帯は風俗街のようだ。
ミニスカートで脚を存分に露出させていることで、真理奈は男に狙われていたのだ。

だがもし男が寄ってきたとしても真理奈には撃退する自信がある。
この青年の気遣いも結果的に全く無用ではあったし、
優しく接しておいて、実は真理奈に近づくための手段だということも考えられる。

「どこから来られたんです?」

礼を言う必要性を感じなかったので、真理奈は青年を無視して王宮へと歩き出した。
しかし付き従うように青年もついてくる。
時間を共有する権利を得たと言いたげな態度が気に入らない。

「ちょっと違う世界からだよー」

異世界人である旨を告げるのは冗談として受け止められる可能性があるとしても止めておけ、
と後輩ちゃんには言われていた。
だが真理奈は別段注意を聞くつもりはなかった。
この点において真理奈は、偽りのない台詞を使うことにしている。
自分の存在を否定するようなことはしたくないからだ。

それに、たいていの人は誤解をしてくれるので、困ることはなかった。
今回もその文句が有効だと思った。
これで変なヤツだと思ってくれれば、抱く気も失せるだろう。
失せないならば突き飛ばすだけだが。

「なるほど、目的は何です?」

だが真面目に受け取られ、さらに真面目な質問をされてしまった。
これではしつこい街頭アンケートと変わりがない。

「世界を救うことー」
「ということは、あなたが魔王を倒す勇者ですか?」
「んな訳ないじゃん。ってかまともに取るんだね」
「えぇ、実は最初から想定してましたから」

足を止め、青年の顔を初めてまともに見る。
真理奈と同じで冗談を言っているような感じは見受けられない。

「どゆこと?」
「勇者ロトや、精霊ルビスが外界からの来訪者だという話があります。
 その噂を基に、世界の壁を越えて行き来する人物の調査、および考察をしているのです」
「え、じゃあ他にもそういう人いるの?」
「残念ながら」
「ちぇ、何だよ」

話を聞いた時間を損したと思った。
後は無視を決め込もうとも。

「あ、分かった。ロマリア王が何か調べて来たのを教えに来てくれたの?」
「……ご名答です」

出発前、ロマリア王は真理奈にとって有益になりそうなことを調べてくれると言ったのだ。

「何なに? どんなこと分かったの?」
「……人は誰しも異世界への憧れを持っているものです。
 そしてそれは、本人たちの見知らぬところで、ひどく具現化しやすい」
「具現化?」

話の出発点が分からず、真理奈はついていけなくなる。

「形となって現れる、ということですよ。
 現実は辛い。
 だから、虚しい夢想だと知りながらも、人は空想せざるを得ない。
 けれど、空想は当人のもとへは現れず、他人へ影響を及ぼしてしまう。
 人間は誰かに関わらなくてはいけない生き物ですから、
 たとえそれを他言せずとも、影響力を持つ」
「……?」
「つまり、心の中では異世界を望みつつも、実際にはそれを果たせない誰かに代わって、
 あなたはここへ来たのです。
 あなたがここにいるということが、それすなわち形ということ」
「果たせない誰かって……私はルビルに連れてこられたんだよ?
 そんな知らない人の妄想だったら、そっちの方が嫌だよ」

ルビスが相手であるからこそ、真理奈は文句を言うことができるのだ。
まだ原因がはっきりしている分、見知らぬ誰かでは気持ちが悪い。

「ルビス……様ですか。
 しかし人間の思いは現実を凌駕し、想像を超えています。
 現にこの世界に暮らす者たちは、あなたの世界を生み出し、
 こうしてこちらの世界に引き込むようなことまでしてしまうのですから。
 ルビス、様自体が人の想像の産物と――」
「え? 今、なんて言った?」
「ですから、あなたは他人の代替行為にしか過ぎない存在だと」

真理奈の目が信じがたいものを見るように見開かれる。
いや、思考に没頭し、何も見ていないと言った方が正しいか。

「私の世界が、現実じゃないって?!」
「あぁ、なるほど、それは失礼しました。
 こちらからすれば、あなたの世界は空想でしかありません。
 ですが、あなたにとっては紛れもない現実なのですから、驚きはもっともです。
 まがい物だと捉えてしまえるような発言をしたことは謝ります。
 ですが、形になった以上、その真偽を問うことは無意味でしょう」

別に神様のおかげで世界が生まれたのだという話を信じている訳ではない。
学校では原因を科学現象で説明していたが、真理奈には興味のない話だ。
それでも、人の想像が世界を作り出すなどと、納得できるものではない。

「この話は止めましょう。
 あなたにとっては、どうやって家に帰るかを考えた方が有益でしょう」
「だからこの国に来たんじゃん! もういいでしょ、私行くから!」

自分の住んでいた世界が否定された気になり、真理奈は苛立った。
青年の話を受け入れてしまえば、今までのことが全て無意味だと認めることになる。

「私は誰かの妄想の中で生きてるんじゃない!!」

真理奈は拳を強く握り、今度こそ何があっても立ち止まらないと決めた。
青年は静かな笑みを浮かべて、真理奈の後姿を眺めていた。

「へへ、残念だったなニイチャン。
 どうだい、他の女紹介するぜ」

娼婦にも逃げられた哀れな男だと思われたのだろう。
下品な笑いを浮かべて客引きが近づいて来た。
青年は振り向かずに、その場で腕を振り上げると、一瞬のつむじ風が巻き起こった。
街中を駆け抜け終わると、客引きの頭が胴から離れて落ちた。

「だから、あなたは選ばれたんですよ、能登真理奈さん」

青年の笑みはひと時も崩れぬまま、彼は闇へと消えていった。


――♪――♪――♪――


翌日、再びイシス女王と謁見したフィリーは、女王からファラオの神託を聞かされた。
他国と血の繋がりを持つことを禁止してきたイシス王家にとって、
ロマリア王から持ちかけられた縁談は、本来であれば門前払いの案件である。

しかしある試練をクリアできれば、女王の子との結婚を許してくれるという。
そういう神託だったと、女王は言った。
正確には、女王の隣に立つ幼い代弁者が王子にそう伝えた。

ある秘宝を、イシスの北にあるピラミッドの定位置に納めてくること。
それが試練の内容である。
秘宝の名前は、黄金の爪。
勇者ロトの一味がかつて魔王を倒す時にピラミッドから拝借した代物だ。
それを再び収めにいく形となる。

それまで少しも身じろぎせずに座っているだけだった女王が、
左手の小指をほんの少しだけ動かした。

するとフィリーの目の前に、手のひら大の正方形板が現れ、
その中心部分から湧き出した水が、その板の上で盛り上がって立体の地図を形作る。

王都イシスの実り豊かなオアシスを中心にして、
砂漠を腕に抱くようにそそり立つモンス山脈を南方に、
そして北に目指すべきピラミッドを表す四角錐が示された。

「お使いください。
 ピラミッドに入れば、それが中を案内してくれるでしょう」

その水地図は重力に逆らい、
まるで意志を持っているかのようにくっきりと浮かび上がった。
決して固定化されることのない水の性質を利用した地図は、
使い手の状況に合わせてその形を刻々と変化させるアイテムだ。

「別室に待たせてあります。
 彼女と対面後、出発なされますように」

そう侍女が言い、別の女官に部屋まで案内された。
中に入ると、真理奈たちの気配に振り返る者が一人。

昨夜真理奈が着させられたものと同じ、一枚布で全身を隠すようにして身を包んでいたが、
顔だけはあらわにされていた。

カゴの中の小鳥のように、寂しそうな雰囲気を持った少女だった。
彼女の目はイシスでは見られない、彼女自身にしか持ち得ない色がこもっている。

「初めまして、私がロマリア第一王子フィリアス三世です。
 王女、此度はあなたとお会いする機会を戴けまして、ルビス様に感謝しております」

昨夜、宴の場にいたマテル姫とは違う。
真理奈はてっきり彼女がいるものだと思っていたが、
それでも戸惑うことなく、いつも通りの挨拶をするフィリーに感心した。
ひざまついて手の甲に口づけするその様も丁寧だった。
彼女の返事を待つより早く、フィリーは言葉を継ぐ。

「昨晩の宴にはお出でにならなかったのですか?
 一刻も早くお目にかかりたかったのですが」
「申し訳ありませんフィリアス様。遠方はるばる――」
「フィリー、近しい者にはそう呼ばれています。
 あなたにもそう呼んでいただければ嬉しく思います」
「フィリアス様、お願いがあるのです」

少しの言葉の応酬の後、彼女は決意の灯った声で言った。
初対面の人に対する警戒心ではない。
何か他のものから来る固い表情をしている。

「何でしょう、王女」
「約束してください」
「約束……?」
「決して私を王女と呼ばない、と」

名前も聞かされぬうちから約束事を突きつけられたことにフィリーは怒ったが、
その理由が王宮内では大っぴらにできない案件なのだろうことを察した真理奈が、
ともかく試練に挑むため、と周りに体裁を繕ってイシスを出発した。
彼女の名前がプエラというものであると知ったのは、その後だった。

再びバリィドッグの力を借り、ピラミッドへの道を行く。
王とイシスへ向かった時とは違い、バリィドッグたちはピラミッドへの道を覚えていなかったが、
女王にもらった水地図を使い、上手く方向を指示してやれば迷うことはなかった。

砂漠の民であるプエラだったが、スキーが苦手らしく、
より簡単な扱いで済むソリを使うことになった。
それでもプエラはバリィドッグの動きに合わせるのに、真剣な様子だった。
もっとも、それとは別に思いつめることがあるようで、道中はほとんど口を開かなかった。

二時間ほど移動したところでいったん休憩を入れることにした。

「さて、ここまで来ればもういいでしょう。
 プエラ王女、そろそろご説明いただけますか」

フィリーがプエラに声をかけたのは、イシス王宮を出てからこれが初めてだった。
プエラに何か秘密があるらしいことは皆が分かっていたが、
だがイシスを出るまでは決して話さないと、プエラはかたくなに拒んでいたのだ。
そしてその口火を切るのはやはりフィリーだった。

「王女と呼ばないよう約束、お願いしましたよね?」
「了承していないものを守る訳ないでしょう!
 あなたのワガママにつき合わされている私の身にもなっていただけませんとね」

もはや我慢できないと言った感じで、王子は憤慨をあらわにする。
わざと王女と呼んでいるのも、嫌味を含めているのだろう。

「俺からも頼む。
 こんな砂漠のど真ん中で氷が欲しいだの、風呂に入らせろだの……
 イラついた王子の相手をするのはもうこりごりなんでね」
「私も教えて欲しいかな。気になるもの」

と、後輩ちゃんに続いて真理奈も催促したところで、プエラは決心したようだった。
一呼吸おいてから、口を開いた。

「私を、殺してください」

そう言い切った後は、堅く口を閉ざしてしまう。
思っていたよりも重い言葉が飛び出したことで、絶句してしまう。
まさか額面通りの意味ではないだろうが、推し量ることはできない。

「……それはどういう意味ですか?
 私のことが気に入らないというなら、それでもいいのです。
 ならば私は王女のもとから去りましょう。
 しかしその訳を聞く権利が、今の私にはあるはずです」

再三の警告にも構わず、フィリーはまっすぐな視線をプエラに注いでいた。
しかしプエラは目をそらし、うつむいたままだ。

「私は、外の子なのです」
「外の子……?」
「イシスの正統な後継者ではない、ということです」

イシス王宮内の応接室で、プエラの言葉を聞いたフィリーの顔色が変わった。

「私は生まれてから女王の顔を見たことがありません。
 王宮から離れた場所で暮らしていましたから。
 しかし、一度だけ王宮に忍び込んだ時、聞いてしまったのです。
 私は女王が王宮外の者と行きずりの関係で作った子供なのだ、と。
 イシス王家では血を混ぜることは許されません。
 だから女王は私を遠ざけ、無き者として扱っているのです。
 彼女にとって私は認めたくない存在なのです」

一言も言葉にはしないが、プエラも母親のことを嫌っているのだろう。
自分の境遇を悲しむというよりは、女王に対する恨みの方が大きいようだ。

「でも今はこうして私と話をしているじゃありませんか。
 女王もあなたの名前を口にしていましたよ」

プエラがフィリーの前にいるという事態は、彼女が語った女王の意向とは矛盾している。

「そういう神託だったんじゃないのか?
 女王としても渋々プエラを呼ばざるをえなかった、とか」
「神託とは言いながらも、その実は女王の方針を示すだけのもの。
 神の名は借りているだけです。
 今回の女王の狙いはきっと、厄介払いでしょう」
「……それは私のことですか」

血筋の違うロマリア王子は、たとえ国家の危機とは言え、厄介者には変わりない。

「おそらくは両方かと。
 イシスの情勢を考えれば、ロマリアとの繋がりは大事にしたいでしょう。
 しかし正室との子であるマテルを差し出しては後継者を再び儲けなくてはいけません。
 その点、私ならばイシス側の損失はありません」

外国からの縁談を無下にしないため、女王は隠し子を表舞台にあげた。
プエラはきっと女王によって捨て駒のように扱われていることに怒りを覚えているはずだ。

「しかし、そのような者と婚姻されてはフィリアス様もお困りでしょう。
 ですから私はピラミッドで死んだことにしてください。
 そうすればイシスは代わりにマテル様を舞台にあげるでしょう」

ピラミッドはモンスターの巣窟である。
試練を果たせずに死んだとしてもおかしくない。

「しかし、あなたはどうされるんです?」
「私はイシスから離れ、私の人生を始めようと思います。
 できれば人の役に立つことを、やってみたいのです」

身分をおおっぴらにできないプエラは明るくない日々を過ごしてきたのだろう。
誰かと関わって生きたいと願うのは、当然のことかもしれない。

「何が役に立ちたい、何が殺してくださいだ。
 こんな砂漠では意図せずとも死ぬのは容易でしょうね!
 何もイシスの内輪事情に僕を巻き込む必要などどこにも存在しないのに!
 あぁ暑い暑い!!」

だが理由を聞いて我慢できなくなったのか、フィリーが騒ぎ出した。

「ワガママなのはどちらでしょうか。
 あなたは本当にストゥルースト様のご子息なのですか?
 親に似ない子もいるようですね」
「それを言うなら王女こそそうでしょう!
 女王様は大変お綺麗でしたのに、こんなにひねくれてしまわれるとはね!
 あぁ、おいたわしや、女王様……!」
「王女と呼ばないでください!
 私は女王とはもう関係ないのですから!」
「ならば僕の方こそ父上を引き合いに出さないでいただきたい!
 僕には僕の道があります!」

後輩ちゃんはめんどくさそうな顔をして座り込み、ブルーは心配そうな声を上げた。
真理奈はブルーを安心させるために、その頬を優しく撫でてやる。

「よーし、分かった分かった!
 こんな砂漠のど真ん中で言い合っても仕方ないでしょ?
 ほら、落ち着いて水でも飲みなよ」

息を荒くした二人に飲み物を差し出してやる。

「では、ここは私に任せてもらおうかな」

何やら自信たっぷりに真理奈が胸を張る。

「何を任せろって言うんだ」
「いいからいいから〜今本物に聞いてみるからさ。
 そしたらどうすればいいか決めやすいんでしょ?」

真理奈の言いたいことが分からぬ3人を尻目に、真理奈は携帯電話を取り出した。

「この人に電話して聞くね」
「これは……ルビス様!?」

先日ルビスから送られてきた画像を皆に見せると、すぐに誰だか分かったようだ。
真理奈はボタンを何度か押して、電話をかける仕草をする。
この世界では携帯電話が使えないので、もちろんポーズだけだ。

「あ、ルビス〜、やほ−元気〜?
 そう、今イシスに来てんのー、そりゃもう暑いよ!
 王子じゃないけどアイス食べたくなるね。
 え? そだよーロマリアの王子様とーイシスのお姫様も一緒。
 でね、ルビスに聞きたいことあるんだけどさ」

最初はいぶかしげに見ていたフィリーたちは、
ルビスの名を聞いたとたん、真面目な表情になり、顔を見合わせる。

「あ、マジか、見てたなら言ってよねー。
 そうそう、それでどうしたら良いと思う?
 うん、うんうん、なるほどーさすがルビス。
 そうだよね〜分かった、りょーかい!
 じゃあそう伝えるね。
 ありがと〜うん、また電話するーじゃねーバイバーイ」

電源ボタンを押し、二人の興味津々な顔を見て、真理奈は成功を確信した。

「ルビス様のありがた〜い神託を発表するよ?
 プエラは女王と直接会って文句でも恨み言でも良いからちゃんと伝えてくること!
 フィリーはプエラの手助けをしっかりとやること!
 そのために今は、予定通りピラミッドに行って、宝物を置いてくることだけを考えなさい」
「真理奈! 君はどんな権限でもってそんなことを――」
「あれー私じゃなくて、ルビス様の決定なのに、そんなこと言っていいの〜?」
「くっ……」

フィリーが文句を言おうと噛み付いてくるが、真理奈は勝ち誇った笑みを浮かべた。
イシス女王が神の名を借りたのと同じことをやったのだ。
真理奈がルビスの使者であることは信じられているだけに、
ネタがばれている女王の神託よりは信憑性が高いようだった。

「不満は後でいくらでもぶつけられるけどさ、
 今プエラを殺したって色々問題になるだけだと思うな。
 まぁ大丈夫だって。
 何も二人でやれって言われた訳じゃないし、私たちも協力するからさ。
 四人でやればこんな試練楽勝だよ。ね?」

フィリーとプエラの二人は本当にピラミッドに行くことになってしまい、
その覚悟を決めかねているようだった。
後輩ちゃんが小声で疑問をぶつけてくる。

「今の本当にルビス様と?」
「んな訳ないじゃん。
 電源は生きてるけど、こっちからかけられないもの。
 それにルビスなんて嫌いだし」
「芝居だったのかよ……」

神の名を騙るのは罪であるが、真理奈は平然とやってのけた。
ルビスはもとより、アキレス王の悪口を言うことすら後輩ちゃんにはできない。
もっとも真理奈には罪の意識すらないだろうが。

「でもさ〜二人がうまくいったらいいと思わない?」
「思わん」
「え〜そしたら面白そうなのに〜」
「お前……完全に勘で動いてるだろ」
「いいじゃーん」
「これで二人に何かあったりしたら大問題だぞ」
「分かってるって。だから問題起こらないように頑張ろうぜ!」
「何でそんなに楽しそうなんだよ。変なヤツ」

後輩ちゃんは呆れると同時に、感心もしていた。
隠し子とはいえ、公式の場に出たプエラが亡き者となれば、問題となろう。
彼女一人だけがモンスターに殺されたとあれば、疑われても仕方が無い。

政治的な衝突を回避するためには、今回の試練をこなし、全員無事に帰還するのが最善だ。
そこまで考えているかどうかは分からないが、真理奈の選択は間違ってはいない。
ともかく今は王子たちの護衛に努めるのみだ。

(そう言えば神託で神の名を借りてる女王は罪に問われないのか?)

政治のやり方の一つなのだろうが、後輩ちゃんにはあまり面白い話ではない。
そんな気も知らずにがぜん張り切り始めた真理奈は、
アリアハン王から送られてきた武器をバッグから取り出した。
くるんである白布を開けると、金属製のグローブのようなものが現れた。

一番に目を引くのは、並列された三本の刃。
キラリと光るそれは、鋭い切れ味を証明している。
その鍵爪が先端に向かうに連れ湾曲しているのは、より創傷効果を高めるためだ。

刃の根元が固定された甲殻部分は、手先から上腕の半分までを覆い、敵の打撃を防ぐ盾となる。
ガントレットから派生したこの鉄の爪は、格闘を得意とするものに重用されている。
真理奈にはぴったりな武器と言えよう。

少しは扱いを知っているらしい後輩ちゃんに教えてもらいつつ、装備をしてみる。
鉄の爪を右腕に通し、手の平と手首に位置するベルトでしっかりと固定する。

初めて手にする物に興味を示す子供のように、真理奈は触って感触を確かめている。

「獣の爪みたいだねー」
「新品じゃないな、使いこんである感じがする。
 けど良く手入れされてるな」
「ちょっと、重たいかな」

軽く素振りしてみても思うようにはいかないのか、首を傾げている。

「甲の部分は金属だからなぁ、ひょっとしたら男用なのかもな。
 まぁ武器に振り回されたくなかったら筋肉つけるこった」
「確かに最近鈍ってるからなぁ……使うならマジ筋トレ必要かも。
 でも肉つけするのヤだしなぁ」

強さと筋肉量は単純に比例するような関係にはない。
攻撃の際に、いかに威力を生み出せるか、
ということを突き詰めれば、今の真理奈の鍛え方でも十分にモンスターと戦える。

「でも剣をあんだけ見事に振るえるならすぐ使えるって」
「あー、あの熊さん倒した時のこと?
 あんなのまぐれだって。
 剣なんて持ったの初めてだったし。
 日本じゃ刃物なんて包丁とかハサミとかカッターくらいのもんだよ」
「は? じゃあ何でそんなに戦えるんだよ」
「それは、武術やってたから……」

言いづらそうに目をそらす真理奈。

「それにあの時は無我夢中だったからさー。
 あれはそう、友情だよ!
 先輩と後輩ちゃんと私の友情パワーで倒したんだって!」

ブンブンと勢い良く腕を振り回す。
明らかに話をそらすための言い訳だったが、後輩ちゃんは深く追求はしなかった。
言いたくないのなら、言わなければいい。
今はまだ、そういう関係ではないのだ。


――♪――♪――♪――


休憩を終えて再び犬ソリに乗り、本格的にピラミッドを目指す。
もう一時間もすれば到着するだろう。
道中では砂漠のモンスターが襲いかかってきた。
硬い甲羅を持つ地獄のハサミ、群れで空から狙いをつけてくるキャットフライ、
火を吐き、地を這う火炎ムカデなど、種類も砂漠特有ものばかりだった。

しかし真理奈に与えられた鉄の爪の威力は素晴らしく、
敵ををまるで野菜のように切り刻んでいく。
十分に扱えているように思えたが、それでも使い勝手がよく分からないらしく、
しきりに首をひねっては納得のいかないような顔をしていた。

(安定しない砂の上で、初めて触る武器をそれだけ扱えれば十分だろ……)

後輩ちゃんは練習していた槍の訓練を諦め、まだ技術の高い剣に持ち替えていた。
長さのある槍で、ポイントを的確に突く動作や、
剣でやるように切っ先を払う時の体の使い方が飲み込めないのだ。

その点で言えばフィリーの方が後輩ちゃんよりは槍の扱いが上手かった。
攻撃のかわし方や、盾での防御はとても様になるものではなかったが、
フィリーにとってそれは些細なことであり、
後輩ちゃんに対して槍さばきの講釈と自論を語ってみせることに執心していた。
後輩ちゃんが辟易としていたのは言うまでもない。

プエラは直接戦いに加わる要員ではなかったが、彼女は魔法をいくつか使うことができた。
しかし実際に魔法に頼らなければいけない場面がなく、三人の後ろで身構えているばかりだった。
しかしプエラは何やら思うことがあるらしく、口をつぐんでいることが多かった。
例え戦闘に参加したとしても、たいした戦力にはならなかっただろう。

「はい水」

真理奈が渡した水を、プエラはお礼を言いながら受け取り、口に含んだ。
それでプエラの緊張感が少しほぐれたような気がした。
休憩が取れたからなのか、それとも別の要因だろうか。
真理奈にはプエラがしきりに王宮から離れたがっていたように思えたからだ。

「砂漠の水ってまずいイメージだったけど、普通に美味しいよね。
 私の国だとね、普通の水ですら売り物になるんだよ」
「冗談でしょう?」

その時、初めてプエラの笑顔を見た。
初対面で笑わない人には、二種類いる。
笑いたくないか、笑えないか。
真理奈は、プエラが後者でないことを知って、笑った。

「あ、もうブルー、ダメだってば」
「ピィィ!」

ブルーが真理奈の脚を噛む。

「スライム、ですか?」
「そだよ〜可愛いでしょ。ブルーっていうの」
「ブルー様」
「ピィ!」
「あ、また噛んだ。お腹空いたの?」
「噛み癖がついたようですね。きっと寂しいのでしょう」

人差し指でブルーの頬をそっとなでるプエラ。

「寂しい?」
「この子も、親や兄弟と離れ離れになっているのでしょう?」
「あ……」

突然日本から離れることになった真理奈の寂しさは、
ブルーがいつも一緒にいてくれたことで紛れていた。
だがこうしてアリアハンから出国してしまえば、ブルーも肉親のもとに帰れなくなる。
ブルーに頼っていた自分と、ブルーの寂しさに気付けなかった自分が嫌になった。

「怒っているとか恨んでいる、とは違いますね。
 甘えに近い噛み癖でしょう。
 親御さんに会いに行こうと約束してみてはいかがですか?」
「そうする! ブルー、これ終わったらアリアハン帰ろうね〜」
「ピー!!」

真理奈の小指と、ブルーのツノが約束を交わした証として結ばれる。
当初の予定よりだいぶ長くアリアハンを離れることになってゴメンね。
もう少しだけ付き合ってね、と真理奈は語りかけた。

(それに、いつかは私も日本に帰るから。
 そしたらブルーも寂しくなくなるよ)

遠目で見る分には分からなかったが、
間近に迫ればその大きさを実感せざるを得なかった。
イシスの一大建造物、ピラミッドにとうとう到着したのである。

ピラミッドの使用目的を宝物庫と制定した当初、
入り口から一つの部屋を繋ぐ大回廊のみの、単純な造りであった。
だがやがて宝が収容しきれなくなった時に、大回廊は封鎖された。
しかし盗賊たちが宝を狙って、ネズミの穴のように掘り進んだため、内部は複雑な迷路と化した。

盗賊たちが一通り荒らしたその後は、モンスターが住み着くようになった。
モンスターたちは巨大な三角錐の建物を家として、
訪問者の金品を命と共に奪い取り、人間がするのと同じように宝箱に納めていった。

そうして大量の宝を蓄え、それを守るモンスターの巣窟・ピラミッドの姿が完成した。
この話はゴールドとスリルを求める者の冒険心を揺さぶり、
ピラミッドに挑む無謀な人間は後を絶たなかった。

しかしモンスターは狡猾である。
落とし穴や落石、人食い箱のトラップなど、ピラミッドの構造を巧みに操り、屍を量産した。
そして屍はミイラ男として蘇り、永遠に幽閉されることとなった。
それがイシスを象徴するピラミッドの現状である。

「この石、キノケトゥスだな」

風に侵食された上、大量の砂埃を被ったピラミッドの石材を見て後輩ちゃんが言う。

「へぇ、石の名前なんて良く知ってるね」
「アリアハンの城壁や町を取り囲んでる石は、全部これだからな。
 モンスターを遠ざける効果があるんだ。確か世界中で採用されてるはずだ」
「え、この中モンスターだらけなんでしょ?」
「そう、だからおかしいと思ったんだ。たぶんこの石、死んでるな」

石に生き死にがあるとは初めて聞いた真理奈だった。

「もう効果を発揮してないってことだ」
「ピラミッドなんて、観光名所だと思ってたのに」

テレビで見たのと同じ、四角錐に積み上げた石の建造物を見上げる。
真理奈は斜面になった石の階段を駆け上がって頂上まで行ってみたいと思う。
試しに後輩ちゃんに聞いてみるが、案の定怒られてしまった。

「水の地図よ、黄金の爪のあるべき場所へ至る道を示せ」

水地図というアイテムをフィリーは使用した。
盤上いっぱいに水が張り、縮尺されたピラミッドが現れた。
水で構成された、透明なピラミッドの内部で流れが発生し、順路を示している。
その流れを追いかけるようにして進めば、目的地に着くようだ。

「道案内はよろしくお願いします。
 私が先頭を行きましょう」

フィリーがプエラに水地図を渡してから、鉄の兜のバイザーを下ろし、
鉄の槍と松明を両手に携える。
明かりが照らす鉄の鎧には、ロマリアの紋章が刻まれていた。

フィリーは覚悟を決めたのか、文句も言わずに一番最初にピラミッドへと入っていった。
プエラはやや不安な表情で、無事に試練をクリアできるのか半信半疑な様子だった。

陽の差さないピラミッドの中はほの暗い。
壁に備え付けられた燭台には、青白い光が灯っていた。
光源としては頼りなく、足元が辛うじて見える程度のものだ。

「浄化しきれぬ魂が灯っているように感じます。
 悲しみと嘆きの声が聞こえてきそう……」

プエラの一言は、寒気を背筋に走らせる。
この場所で多くの人が死に、ミイラとなったのだ。
青白い光が自分たちの仲間に引き入れようとしているような気にさえなってくる。

「暗闇は嫌いです。
 自分ひとりしかいないような感覚になりますから」

気を紛らせたいのか、プエラが話し始める。

「一緒に寝てくれる親がいないからだと思うんです。
 乳母はいましたが、女王の命に従っている人としか見れませんでした。
 母に会いたいから王宮に行きたいと言っても、たしなめられるだけですから」

聞いて欲しいという思いはもちろんあるだろう。
だがそれよりも、自分の気持ちを確認したいという面の方が大きいようだ。

「私は外の子だと知った時から、女王のいない場所に行きたいと願うようになりました。
 そして、フィリアス様のお話を聞いた時、ルビス様がくれたチャンスだと思ったのです。
 私の願いがついに届いたのだ、と。
 今思えば、逃げていただけだったのかもしれません」

当たりはシンっと静まり返っていた。
モンスターの気配もない。
ただ闇から闇へ、無限に続くかと思われる回廊を進んでいった。

「ルビス様のチャンスは逃げるために与えられたものではなかったのですね。
 殻に閉じこもって、破ろうとしなかった私に、破る機会をくださったルビス様に感謝します。
 私、帰ったら女王と会ってみようと思います。
 話し合わないと分からないこともありますよね」

プエラの足取りはしっかりとしていた。
きっとプエラの人生はこの闇の中のようなものだったのだろう。
しかし彼女の目には、闇の先にある未来が見たいという意志が宿っていた。

「つまらない話をすみませんでした。
 ……戦う時に邪魔でしょう。
 松明は私が持ちます」

聖水をまいているからか、モンスターは見当たらなかった。
モンスターの生息する洞窟のような場所では、前方はもちろん、
後方にも注意を払わなければいけない。

灯りも乏しく、視界が利かない上に、
死骸がそこらじゅうい転がっているのを見てしまえば、
いつどこから飛び出してくるのか、気が気でなかった。

お互いの立てるちょっとした物音に怯えながら、ゆっくりと前に進んでいった。
会話はなくなっていた。

次第に緊張感が高まっていった。
手に汗をかき、フィリーは持っていた鉄の槍を落としてしまう。
それで一瞬、皆の空気が緩んだ。
その一瞬をモンスターが狙っていたとも知らずに。

かがんだフィリーの頭に、ミイラ男の拳が降りかかる。
ミイラ男の腕をとっさに蹴り上げる真理奈。
フィリーは助かったが、無意識の行動ゆえに仲間への警告が一呼吸遅れた。

「敵っ!!」

叫んだ時には既に敵の先制攻撃されていた。
後輩ちゃんが振り向きざまに武器を薙ぎ払い、
真理奈は鉄の爪でマミーの投げた石つぶてを受け、
フィリーは慌てて拾った鉄の槍で大王ガマの足をすくった。
プエラは支援用の呪文を唱える体制に入る。
松明の炎が揺れ、壁に戦闘する真理奈たちの姿を刻々と映し出していた。

「後輩ちゃん! そっちお願――」

真理奈が前に飛び出そうとした時、踏み込んだ足元の床が抜けた。
罠を予期していなかった真理奈は階下に落下してしまう。

「真理奈?! 大丈夫か?!」

だが期待した返事は何一つ返ってこなかった。
モンスターを蹴り飛ばして時間を稼ぎ、落とし穴に松明をかざしてみる。

灯りは闇に吸い込まれ、底の様子はうかがい知れなかった。
ケガをしているのか、失神してしまったのか、それともモンスターと戦っているのか。
うめき声が聞こえてもいいくらいに近距離にいるはずなのに、
まるで真理奈の存在自体が消えてしまったかのように静かだった。

「おい真理奈! いるんだろ! 真理奈!」
「ピィィ!」

ブルーが冷静になれと言わんばかりに鳴く。
いつも一緒にいるが、今回は真理奈と共に落ちてはいなかったようだ。

「青いのうるせぇ! 今はそれどころじゃ――」
「ピピィ! ピーピー!!」

後輩ちゃんの靴を噛んで引っ張りながら、
ブルーはそれでも真剣に何かを訴えていた。

「……あっち、か?」
「ピィピィ!

体を沈ませるようにしてブルーが頷く。
真理奈のようにスライムと真面目に話をしようと思った訳ではない。
ただ行動するための理由が欲しかっただけだ。

「真理奈〜! そこでじっとしてろよ!」

穴底へ言い残し、ブルーが跳ねていくのに続いて後輩ちゃんも走り出した。
モンスターを牽制し、その横をすり抜けていく。

以前に後輩ちゃん自身も誘いの洞窟にて落とし穴に落ちたことがある。
足を痛めて動けなかったのだが、それが幸いし、
上手いこと探しに来てくれた先輩が早急に助けてくれたのだ。

その教訓を真理奈に伝えたことがあるのだが、果たして覚えているかどうか。
すぐに動きたくなる真理奈に、その場に留まれと言ったところで聞き入れるか怪しいものだ。
それでも動ける状態ならまだ良い。

もし頭の打ち所が悪かったら……
もしモンスターが手負いの真理奈に襲いかかっていたら……
もし彼女の声がもう聞けなくなったら……
もし一生会えなくなったら……

そんな想像をするだけで、心が締め付けられた。
たいした運動もしていないのに、心臓がドクドクと大きな音を立てる。
息が上がり、自分の呼吸がうるさく感じられた。
王子とプエラを守る方が先決、という考えは微塵も出てこなかった。

ブルーについていくと、外に出た。
正面の入り口から建物に沿って移動していく。
本当に地下へ降りる道路はこっちなのかとブルーを疑うことはなかった。

ブルーに少しも迷う雰囲気がなかったし、
今は藁にもすがりたい気持ちだった。
ブルーも今は真理奈を助けたい気持ちでいっぱいなのだろう。

ザッ、と一瞬の砂嵐が吹き上がり、足を止めて立ち尽くした。
すぐに過ぎ去った砂嵐に恨み言を吐いた時には、ブルーの姿を見失っていた。

視界に入るのは、黄色一辺倒の景色だけ。
それで酷く絶望的な気持ちになった。

この地には何もない。
見渡す限りが空と砂ばかり。
砂漠が広がりを見せているという話を聞いた。
昔は緑も豊かな土地だったのだと。
ルビス様にこの地は見放されたのだと嘆く人もいた。

不毛の大地で、オアシスが楽園と呼ばれる理由が今やっと分かった。
水と木と花と。
それらに囲まれて生きることは何よりも心が安らぐ。
だが真理奈のいない今この瞬間は何と寂しいことか。

(行こう。アイツが死ぬ訳ねぇ)

ピラミッドをぐるりと回ると、下り階段を見つけた。
明かりを持ってくるのを忘れていた。
よほど焦っていたのだろう。
目を闇に慣れさせながら、一歩一歩、段差を確かめ歩く。

やがて入り口からの光が届かなくなった。
音が全く聞こえなくなっていた。
さっきまであれほどうるさくしていた心臓の鼓動も聞こえない。
床を踏みしめる音も、鎧がこすれる音も。

(真理奈ー!!)

その声も発せられなかった。
耳が聞こえなくなったのか、それともここでは音自体が存在しないのか。

(くそっ、これじゃ探しようがねぇ!)

短剣で壁に傷を付けながら歩いた。
これで出口への道を見失うことはないだろう。

さきほどより腐臭の酷い道を行く。
きっと多くの死体が転がっているに違いない。
欲に目がくらんだ愚か者たちの。

ここで死んだ者の末路は三つ。
腐敗するか、食われるか、ゾンビとなるか。
そのどれも選ばせるものか、と後輩ちゃんは拳を握り締める。

その時、何者かが走り来る振動を感じた。
そして鼻先を通り抜けた三本の風も。
体を横にずらし、その後に来る体当たりを避けた。

(そこから反転ジャンプで追撃か!)

反射的に脳が予測を立てる。
そして思い通りに、何者かは動いてきた。
良く知った、彼女の戦法通りの攻撃方法だ。

もしかしたら既にゾンビとなってしまったのだろうか。
しかし例えそうだとしても、相手が真理奈であれば反撃することはできない。

だから動きを封じるため、その体を抱きしめた。
するとスイッチの切れた人形のように、動作がピタリと止まった。

柔らかい体。
自分とは違うリズムで行われる呼吸。
暖かい頬の感触。
間違いなく生きている真理奈だ。

無事を確かめるように、ぐっと強く抱き寄せた。
もう大丈夫だというように背中を叩いてやった。
すると向こうもぽんぽんと叩き返してきた。

壁につけておいた目印をたどりながら、地下を脱出した。

「ゴメンね、何か敵がいっぱい来てさ」
「馬鹿野郎。動くなって言ったろ?」
「へへ、ゴメン……でもね、絶対大丈夫だって、
 後輩ちゃんに、ブルーにまた会えるって分かったからさ」

自分の失態だと認識しているのだろう。
恥ずかしそうにしながらも、許して欲しいという視線を向けてくる。
だが後輩ちゃん自身も既に怒る気は失せている。

むしろ一息ついたことで、先ほど抱きしめてしまったのを思い出してしまい、
そこらを転げ回りたいくらいだった。

「あ、ゴメン切っちゃったね。
 ゴメンね? ちょっと待って」

真理奈の鉄の爪が後輩ちゃんの頬に浅い傷をつけていたのだ。
後輩ちゃんは言われてから痛みを感じ出した。
真理奈がバッグから絆創膏を取り出し、頬に走った傷口にあてがう。

「……真理奈、これ何だ?」
「ばんそーこー。知らないの?」
「何かみっともねぇなぁ」
「可愛いじゃん」

猫だか兎だかをモチーフにしたキャラクターがプリントされている。
そんなものを顔に張り付けておくのは恥ずかしく思えた後輩ちゃんだったが、
それよりも真理奈に触れられた部分に、彼女の熱が移ったような錯覚を覚えた。
真理奈の顔を間近で見てしまい、麻痺してしまったかのように体が動かなくなった。

「え、何? 泣くほど痛かった?」

真理奈に言われて初めて、泣いているのに気付く。
同時に、自分の中にあった感情を認めなくてはいけなかった。

(なんだよ……馬鹿みてぇ……)

これでは母親に抱いてもらい、その存在感に安心して泣く子供と同じだ。
後輩ちゃんは気恥ずかしさを隠したくて、涙を拭いて心を落ち着かせようとした。

「悪かったって。今度女の子紹介するから。ね?」
「……家庭的であんまり野蛮じゃない子にしてくれ」
「りょーかい、りょーかい。そんなの五万といるよ。
 言葉にトゲがあるのは見逃してやろう」

ケラケラと笑う。

「よし、フィリーとプエラんとこ行こうぜ!」
「あ、馬鹿か俺は。二人置いて来ちまったぞ」
「急ご!」

二人は並んで走り出した。


プエラが手元を確認できるほどの、微かな光を焚く。
松明も水地図もどこかに捨ててきたようだった。

真理奈と後輩ちゃんの離脱により、
フィリーとプエラはモンスターに対処し切れなくて逃げだした。
なりふり構わず包囲網を突破し、ひとまず安全を確保できそうな場所まで移動した。

だがまたいつ危険が訪れるか分からない。
フィリーは自分の鎧の大部分が傷んでいるのを見た。

(手にしてから、一度も汚したことないのに)

残りの強度を調べようと手を伸ばすが、今度は腕に鋭い痛みを覚え、思わず声を上げた。

「大丈夫ですか、フィリアス様」

プエラが回復魔法を唱えようとフィリーの腕に手を添えてきた。

「触るな!!」

それを乱暴に振り払う。
こうなった原因は全てプエラのせいだとフィリーは思った。
何が楽しくて、こんな所でうずくまらなければいけないのか。

吸う空気は濁っていてまずいし、緊張による疲労は激しく、足に力が入らない。
傷口からは血が流れ出ていくのが分かる。
髪はザラザラになり、後々痛まないか心配だ。
状況を確認すればするほど、体が冷えていくような気がした。
ブルブルと震えが体を襲い、フィリーは膝を抱えた。

「これは陰謀に違いないですよ。
 たかが縁談ごときでこんな危険なことをさせる必要なんてないじゃないか!
 それもこれも王女のせいですよ!
 あなたが女王にうとまれているから、僕まで巻き添えになってしまったんだ!
 当事者の二人が消えれば後は何とでも言い訳が立つ。
 調べようにも僕たちの死体は見つからない!
 今夜にでもピラミッドをさまようミイラとなってしまうのですからね!!」

プエラへの恨み言の半分は、自分自身へ言い聞かせる内容だった。
もしかしたら父も、自分のことを疎ましく思っていて、
亡き者とするためにこの計画を了承していたのではないか。

いや、そもそもロマリアの娘たちとのお見合いの時点で父は手を回していて、
自分に似合う女性とは会えないよう工作されていたのではないか。

疑い始めれば際限なく、世界の果てから自分の存在まで、その全てを否定できそうだった。
二人の荒れた息遣いだけが、その場を支配した。

「私は以前、ストゥルースト様の著書に目を通したことがあります」

突然何を言い出すのかと、フィリーは床に向けていた顔を上げてプエラを見た。

「ストゥルースト様は遊び人だとよく言われますが、それは誤解だと思います。
 国民を知ること、そして自分を知ってもらうことの重要性を、よく理解しておられます」

ストゥルーストとは、ロマリア王にして、フィリーの父親である人だ。
だが今彼の話が関係あるのだろうか。

「道の繋がりは、人の繋がり。
 道なきところに、人間関係は生まれない。
 だが人は、道を造ることができる幸せな生き物である。

 その文を読んだ時、私はストゥルースト様のお力になりたいと思いました。
 誰とも関わりのない生活を続けてきた私も道を造ってみたい、と」
「そのために僕を利用したのか?!」
「まだ、まだ続きがあります」

プエラの顔がフィリーの方を向き、二人の視線が合った。

「聞けばストゥルースト様のご子息も本を出されているとか。
 興味に駆られて手に取りました。
 ストゥルースト様とは違うけれど、この方は言葉の強さを信じている凄い人だと感じました。
 私は女王の娘だと何度言い聞かされても信じることができません。
 ですが、フィリアス様がもし私と同じ状況になったとしたら、
 きっと何の迷いもなく、そうだと信じられるのだろう、と……」



「そんな私が言うのはおかしいかもしれませんが、信じてください。
 きっと助かります。真理奈さんも駆けつけてくれます。
 そしてフィリアス様の願いもきっと叶います。
 黄金の爪は私が納めてきましょう。
 順路はまだ、覚えていますから」

プエラの手が、フィリーの腕に添えられる。
温もりを感じた。

「イメージどおりの人で良かったです。
 周りに左右されず、自分の信じた道を行くあなたの生き方、うらやましいです。
 その力を少しだけ、分けてください」

プエラは手を滑らせ、フィリーの手を優しく握った。
その手が微かに震えていた。

「ありがとうございます、フィリー様」

プエラが黄金の爪を胸に抱き、フィリーのもとを離れていった。
きっとプエラは戻らない。
フィリーはプエラの去った方向をいつまでも見ていた。
その視界が歪んだ。
知らずに涙が流れていた。

腕の傷はいつの間にか治っていた。
プエラが回復魔法を唱えてくれたのだろう。
それでもフィリーは一歩も動けなかった。

(これで……マテル王女と結ばれる……)

フィリーは始めから身分の高い女性との結婚を望んでいた。
ロマリアでお見合いをしたのは、
高位ではない人にもチャンスを与える優しい自分をアピールしたかっただけだ。
知らずの内だったが縁談を用意したロマリア王には感謝の気持ちさえ芽生えたのだ。

だがイシスに差し出されたのは、位のないプエラだった。
イシス美女には違いないが、認められていない王族の娘をもらうことに納得がいかなかった。
ピラミッドに行くのを了承したのは、ルビスが望みを叶えてくれると思ったからだ。

グオオという恐ろしいうなりと、女性の悲鳴が重なって響いてきた。
プエラがモンスターに襲われたのだろう。
見えない恐怖が体を包む。

(じきにこっちに来るかもしれない……
 見つかるのは時間の問題だ……)

フィリーは出口へと向かいだした。
それでも足がガクガクと震え、まともに走れなかった。
膝から崩れ落ちながらも、壁に手を付いて立ち上がり、逃げた。
物音で気付かれたのか、ミイラが時折攻撃してくる。
まともに倒すことはできなかった。
鉄の槍を振り回してできた敵と敵の隙間を転がりながら逃げた。
腕を噛まれ、肩に体当たりされ、足をすくわれ、頭を殴られ、それでも逃げ続けた。

恥も外観も全て捨て、王子は出口を目指した。

やがて前方に松明の明かりと、真理奈の姿を見つけた時、
フィリーは彼女に鉄の槍を投げつけた。
真理奈は鉄の爪の甲でそれを受け止めるが、しびれが残った。

「真理奈! 真理奈!
 どこへ行っていたんだ!
 君は僕の護衛をしなければならないんだろう?!」

頭に血の上った後輩ちゃんを真理奈が制したのも気付かないようで、
そのまま真理奈に近づき、その足へしがみついた。

「良かった! 助かった!
 王女が! 上でやられているかもしれない!
 悲鳴がっ! 助けに行ってやってくれ!!
 良かった!!」

後は全て真理奈に任せればいい。
フィリーは安心して涙を流した。

「よし、じゃあイシスに帰ろっか」

しかし真理奈のその言葉に、フィリーの涙は止まった。

「何を、言ってるんだ。プエラはまだ――」
「だって危ないと思ったから、一人でここまで来たんでしょ?」
「その通りだよ!
 プエラが一人で黄金の爪を納めに行ったんだ!
 それを君は見捨てるのか?!」
「ならなおさらプエラの思いは無駄にできないよ。
 ここから出るのだって、まだ結構距離あるよ?
 王子だってまたモンスターのいるトコに戻るのイヤでしょ?
 それに私は王子の護衛をしなくちゃいけないからね。
 王子の命令でも、側を離れられないよ」

フィリーが床に手をつき、頭をがっくりともたげた。
プエラが今犠牲になろうとしている。
生き残るために殺してくれと言った最初の時とは違う。
このままではプエラは本当に死んでしまう。

「ぼ、僕は……マテル王女のような身分のある女性と結婚したかっただけなんだ……
 だからあんな女どうなったっていいんだ……
 僕は助かったんだ……」

真理奈は後輩ちゃんに目配せをしてから、フィリーの肩に手をかけた。

「ようやく本音が聞けたね。
 フィリーのこと嫌いだったけど、これで私はいいよ」

真理奈はフィリーの言葉の源泉がどこにあるのか知りたかった。
フィリーがどうして他人を気遣わない言動をするのか。
その理由がどれだけ憎たらしいものだったとしても、
それをごまかされてしまうと気持ちが見えなくなってしまう。
まずは本心で話してくれることが大切なのだと真理奈は思う。

「でもまだ、もう一つだけ、フィリーは心を隠してる。
 何で私に助けてって言ったの?」
「僕を、責めているのか?」
「そうだよ。フィリーを助けたのは私じゃない。
 だからフィリーは私に助けてって言った」
「……」
「今ならまだ間に合うよ、ほら」

肩をつかむ真理奈の手にギュッと力が込められた。
そこから気力が流れ込んでくるような気がした。

「……僕は、プエラに助かって欲しい……助けに、行く」
「じゃあ私も! 王子の護衛しなきゃだしね!
 行くよ、フィリー!!」


――♪――♪――♪――


そこは光の差し込む暖かな部屋だった。
無色の床に反射したまばゆい輝きが、
壁や天井に一瞬とて同じでない模様を作り出している。

王宮内では凝った装飾を施した造りを多く見かけたが、
何の意匠も施さないことで、この部屋の美しさは表現されているのだ。

日の入りには、煌々とした夕日によりあかね色に、
夜には、静寂な月明かりにより深い青色に、
そして日の出には、全てを包み込む柔らかさを持つ乳白色に。
季節の移ろい、時の経過とともに空気の変わる一室となる。

部屋はそのまま庭に繋がっていた。
プエラがロウソクに火を灯していくと、そこには小さな世界があった。
オレンジの花が芳しく咲き乱れているかと思えば、
蛍のように淡く光を放ち、夜景を彩る木の実が生っていたり、
蜜を吸う夜行性の蝶が、花たちにお返しとばかりに白銀の鱗粉を撒き散らす。

室内から庭を眺めると、それだけで一つの芸術作品であるように見えた。

「この間イチジクの実がなりました。合わせてお召し上がりください」

プエラの乳母が細々と動き回って料理を配膳してくれる。
王都イシスへ帰還し、一日泥のように眠ったあとの食事は何よりも美味しかった。

ピラミッドにて真理奈が王子を連れてプエラの元へたどり着いた時、
プエラは白衣を自身の血で真っ赤に染めていた。
広間は呪文の炎により燃え上がっており、回復する気力が残っていなかったのだろう。
ふらつきながらも黄金の爪を納めようとプエラは血の滴る顔を上げた。

先に向かっていた後輩ちゃんも善戦していたが、いかんせん敵の数が多すぎたのだ。
フィリーは炎をくぐり抜け、プエラを敵の歯牙から救い出した。
そして二人は手を取り合い、ついに黄金の爪を本来あるべき場所に納めたのである。

するとピラミッドは大きな震動を起こし始めた。
崩落の危機を感じ、脱出を計った真理奈一行は、
階下より押し上がってきた大量の水により足止めを受けた。
やがて回廊にあるものを全て流し出そうとする濁流に巻き込まれ、
皆が溺死の可能性を考えた。

水はピラミッド内部をことごとく駆け巡り、頂上付近に空いた穴より噴出した。
水流に乗った真理奈たちもそこから噴水のように宙にまき上がり、やがて重力に従って落下した。
その場所はピラミッドから流れ出た水で池になっており、無事に着陸することができた。

聞けば古代、ピラミッドは巨大な搾水器であったという。
黄金の爪がそれを操作するスイッチのような役割を持っていたらしく、
今回遥かな時を越えてピラミッドは本来の役割を思い出したのだ。

ピラミッドを源流とした新しい川の流れが出来上がれば、
またそこから生まれる商売があろうと、港町で職を無くした者たちは早くも注目しているらしい。

ピラミッドから帰り着いた真理奈たちをプエラは自室に招待してくれた。
そこで小さな宴を上げ、試練の達成を労いあった。
そしてプエラは皆の前で踊りを披露してくれた。

繊細な指の表現、音のない足の運び、頭の動かし方、息の吐き方に至るまでが、
一秒を何時間にも感じさせるほど限りなくゆっくりと
しかしその一つ一つに彼女の生が込められているようだった。
細められた目がすっと横へ流れると、同性である真理奈でさえもドキドキとしてしまう。
彼女の魅力はその時最大限に輝いていた。

大広間見た、大胆で激しく、女性的なマテル王女の踊りとは違い、
客である真理奈たちを意識していないのが、かえって印象的だった。
フィリーが会話をするのも忘れて見入っているのを見て、真理奈は一人安堵の笑みを浮かべた。

「あの子は良い子でしょう?」

真理奈に乳母が話しかけてくる。
我が子を自慢したいのだろう。

「そーね、女王の娘さんとは思えないくらい」
「あら、女王様はプエラを愛していらっしゃるのよ」
「嘘だ〜、なら何で離れて暮らしてるのさ」

少しの逡巡の後、乳母は皆に聞こえないように話し始めた。

「女王様の役割が何か、ご存知ですか?」
「え、そりゃあ国を治めることでしょ」

王と呼ばれる者の仕事を全て理解していた訳ではないが、
ロマリア王はそのために邁進していたはずだ。

「政治は優秀な女官が全て仕切っています。
 女王に発言権がないのは、裏で政策の全てを決められているからです。
 女王はただ、ファラオの血筋を引く者としてあれば良いのです。
 王族は後世に自分たちの血を残すことだけを仕事とし、
 官僚はその血を利用して政治を行う。
 肉体だけがただ傀儡として存在し、自我を必要とされない立場がどれほど辛いことか、
 彼女の気持ちを想像しただけで私は……」

乳母が目を伏せ、見られまいと両手で顔を覆うが、涙は隙間から零れ落ちる。


「アナタ、女王と仲良かったんだね……」
「そんな彼女に愛する人が現れたのです。
 一夜限りの行きずりの関係だったとしても、彼女にとっては初めての恋だったに違いありません」

まだ今よりも若き頃の女王は、王宮に縛られている自分に嫌気がさしていた。
誰もが寝静まった夜中に、寝室を抜け出した。
テラスに出ると、見知らぬ男が立っていた。
まぶしいくらいの月明かりが二人を照らし、風が互いの気持ちをはやし立てた。

砂漠の土が何の抵抗もなく水を吸い込むように、女王と男は一つになった。

「どんな風に言われても、彼女の愛は本物よ。
 だから私はあの子の乳母になったんだから」
「でも、例えそうだとしても、自分の子に好きだって言えない親はダメだよ。
 私なら椅子蹴っとばして抱きしめてやるのに」

自分だってそうだが、女王は絶対にそうしないだろうと乳母は思った。
昔から彼女は真面目なのだから。

「ま、フィリーといれば退屈はしないかもね。
 それでも寂しいってプエラが言ったら教えてよ。
 また遊びに来るからさ」

そう言い残してプエラの踊りにまざっていった元気な少女を乳母は眺めた。
いくらプエラが熱心に頼み込んだとしても、
十中八九女王に会うことすらできないだろう。
だがそれでも、こうして共に生きてくれる友達がいれば、プエラは幸せになれるはずだ。
楽しそうに笑うプエラを見て、乳母はまた涙を流した。

次の日、真理奈はアリアハンへ帰ることとなった。
ロマリアでアリアハン王レキウスの手紙を持ってきてくれた少年が、
わざわざイシスまで迎えに来てくれたのだ。

フィリーとプエラの二人とはここでいったんお別れとなる。
ロマリア王にも報告をしに行きたかったのだが、先延ばしにすることとなった。

「プエラ〜、ごめんね。私帰らなきゃ」
「そう、ですか……お忙しいのですね」
「バカ王子につき合わされちゃったおかげで時間くったからね〜」
「真理奈、そんなことを言うなら僕のプライベートシップに乗せてやらないぞ?
 ここまで乗ってきたあの船とは比べ物にならないくらいに立派なものさ。
 ま、プエラとはもう約束をしたのだがね」

王子は最後の台詞が言いたくて、そんなことを言い出したに違いない。
真理奈は当然取り合わない。

「何がプライベートシップだよ、そんなのこっちから願い下げだよーだ!」

フィリーとプエラのお見合いの行方は、一時保留になったようだ。
まずはプエラが女王との問題に決着をつけたいと強く希望したからだ。
すぐにでも結婚する、ということにはならないらしい。

ただプエラはフィリーのことを卑怯者だとか、悪い風には思っていないようだった。
フィリーが無事だったことはもとより、助けに来てくれたことを感謝すらしていた。
真理奈はそれを聞いて、いつフィリーの本性がバレるかを密かな楽しみにすると決めた。

フィリーは相変わらず周囲を省みない発言を繰り返していたが、
プエラに対しては多少気遣いのようなものを見せるようになったようだ。
プエラが尊敬するロマリア王に会えるように計ったりしているらしい。
真理奈がロマリアに初めて訪れた頃から比べれば大きな進歩だろう。

「フィリー、アンタがロマリアとイシスの架け橋になんのよ?」
「何を言ってるんだ真理奈。僕じゃなくて、僕たちが架け橋になるのだよ!」

フィリーはプエラの肩を組むが、プエラは嫌そうにフィリーから距離を取った。

「プ、プエラ?!」
「ふふ」
「ほら、二人とも手を出して。こうもっとくっつけて」

真理奈は二人に片手ずつ差し出させ、手の器を作らせる。
そこに真理奈はブルーオーブを乗せた。
不死鳥ラーミアを蘇らせるオーブの一つだ。
綺麗に澄んだ、イシスの清水を思わせる青に輝いている。

「これは連合に参加する国が持つ、友情の証みたいなもんね。
 女王にも話しようと思ったんだけど、その役はフィリーとプエラに任せるね。
 ロマリアの王様に連合の仕事やれって言われてたフィリーにはちょうどいいでしょ?」
「真理奈、君は――」
「あ、もういかなきゃ!
 詳しいことはまた他の人が連絡してくれるみたいだからよろしくね!
 じゃあバイバイ〜!」

フィリーの文句と、プエラのお礼を背に受け、真理奈は再び走り出した。